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2016.08.25 Thursday

ミカン作り名人おばあさん

 先日、「NPO法人 坂の上のクラウド利用研究会」の理事長農業法人JWF(ジェイ・ウイング・ファーム)の代表でもある牧 さんから電話があった。要件は、”本の中から、ある本が出てきてな。だいぶ前の本なんやけど、読み直してみるといい事が書いてある。今、やろうとしていることが全部書いてある。この本を書いた一ノ瀬さんは、よく知ってるんやないか。今は、どうされているのか知らないか?”というものであった。

 これらの本が書かれたのは1991年(左)と1995年(右)である。

 そして、私が愛媛県初となる気象予報士の資格を得たのは1995年のことである。

 その頃はインターネットの始まりの頃で、農業の情報化の必要性を感じた農業者たちが「農業情報利用研究会」を結成し、今の農業のIT化の先駆けとなった時期である。それを全国的に推進したのが農業情報利用研究会の事務局長であった田上隆一氏であり、最も強烈な影響を与えたのは、著者である株式会社IBC(宮崎県)社長の一ノ瀬正輝氏であった。彼は自社の社屋の屋上に気象衛星ひまわりの情報を直接受信する巨大なパラボラアンテナを設置し、現在は当たり前になったTVなどの気象衛星の画像解析の技術を開発した先駆者でもある。彼は農業に人一倍強い思い入れがあり、農業の情報化を自ら進めるために「ひまわりネット」を構築し、”科学する農業”を推進した。この取り組みの一部が富士通の農業システムであり、JA全農のアピネスなどにも取り入れられている。この時、全国の農業者がこぞって「ひまわりネット」の会員になり、経済連職員であった私も例外でなかった。

 今から21年前のことである。

 この3月11日に発足した「NPO法人 坂の上のクラウド利用研究会」は、これらの経験の上に設立したものである。

 

日本一農家のハイテク技術

実は、この本の中に母のことが「ミカン作り名人おばあさん」として書かれている。

著者の一ノ瀬さんは、何度か私の実家(現:あらし山)に来られており、それをベースに書かれたものである。

懐かしい母の想い出である。

   今も昔も変わっていないが、それにしても凄い内容だなぁ。

   当時私が経済連職員であったため、著者の一ノ瀬さんは私に配慮して原本には大洲市となっている。

------------- P173〜P177 -------------------------------------------------------

「ミカン作り名人おばあさん」

 肝心なのはハードウエア、つまり仕掛けじゃありません。そんなものはなくてもうまくやってるところはあります。その好例として、愛媛県八幡浜市の清水キミ子さん(六十八歳)というミカン作り名人おばあちゃんを紹介しましょう。

 彼女は元小学校の先生。お兄さんが戦争で亡くなったため、結局、彼女が教師を辞めて家業である農業を継ぎ、養子を貰われたとのことでした。長年にわたって農作業日記をつけておられ、それが段ボールに一杯になっていました。

 それを見せてもらったところ、非常にキメ細かに記録されたもので、私は驚いてしまいました。それがあると、昨年はこうだった、その前はこうだった、今年の葉の色がちょっと違う、だから今年はこうしよう…‥・というようにデータにもとづいて具体的に作業を変えられます。

 それが成果を生むのです。

 ミカンの剪定の方法も清水さんのやり方は、独自のものでした。

「農協の指導通りに彼らがいう暫定で枝を切ってしまったら実はならないよ。反対のことをした方がよい。あんな指導は聞かないことが一番」

 と言っていました。農協が指導する方法は、画一的過ぎるのです。植物の栽培法は木により、畑、土質などにより元肥も、窒素などの養分も違ってしかるべきで、農協の画一的なやり方では対応出来ないはずなのです。ところがダメ農家はそれに依存してしまう。これでは成果は上がりません。

 でも農協とはいろいろな面で付き合いがあるわけですから、指導員が指導する方法を無視するわけにいかない。ダメ農家はそのため義理で付き合うという部分もあるでしょうが、それによって植物がうまく育ち、期待通りの結実を見なければ、損するのは自分です。対面や義理どころじゃなくなります。

 この点、優秀農家は、一応相手の立場を考えて開いたことにしているけれども実際にはまったく反対なことをしている。あるいは最初から聞かない。両タイプがあります。どちらも結果的には農協の画一的なやり方に従っていないわけで、自分が研究したやり方を貫いていました。

 清水さんもそんな一人でしたが、彼女が独善に陥っていない証拠に、彼女のミカン園に行ってみたところ、枝がやわらかくて、たわわにミカンがなっていました。その一つをとって実際に食べたミカンのおいしかったこと。一千億円をかけた給水システムで育てたミカンとは比較にならないほどの味でした。

 農協が指導する剪定では、杖が硬くなってしまうのです。コチコチになってしまう。それはやり方が間違っているということです。でもその普及をやめようとしない。いったん決めた指導方針を曲げることは体面上出来ない。実際に指導に当たる指導員が疑問を持っているとしても、上司の手前それには逆らえない。こんなことで硬い枝、そしてまずい味覚になってしまうのです。ミカン栽培で一千万円の納税をしている田中さんも言っていたことですが、ミカンは枝がしなやかに曲がり、ぶら下がった恰好で実がなるところに糖が上がるのだそうです。農協のやり方は、この肝心な点を無視しているのです。

 ではなぜ農協はそんなやり方を押し通そうとしているのか。ミカンは通常は隔年結果といって一年おきになるのです。そこでそれを避けるために、少しなりを抑えて、毎年平均してならそうという考え方をしているからです。

 これはこれで正しいと思います。いちがいに否定出来ません。収益の安定化という観点から見るとそれなりの評価が出来ます。それに対して田中さんなどは、樹に任せて、なった時はなった時、ならない時はその時でいいという考え方をしています。

 通年で経営が安定するならいい。その代わり、おいしいミカンがなるわけですから、隔年でも十分経営が成り立つ。おいしければ価格が高く、一年おきになってもへっちゃらだというわけです。

 ですから田中さんの園地に行くと、こっちの樹は花が一杯咲いているのに、隣の樹はまったく咲いてないという状態のところがあります。それでも田中さんが平気なのは、規模が大きいこともあります。何しろ二十七ヘクタール以上ありますからね。それだけの余裕があるのです。

 でも規模が十〜三十アール程度では、隔年結果ではガタッと収穫が落ちてしまいます。そのうえ品質が悪く、並みの等級による取引しか出来ないとなると経営にモロに響いてしまいます。ミカン農家としては、暫定一つもおろそかに出来なくなるわけで、清水さんのように、

「農協の指導員の言うことなど聞いていたら、実がならない」は重要なものとして受け止める必要があるのではないでしょうか。ミカン農家にとっては死活問題に関わることなのですから。

 それに彼女に会って感動したことがもう一つありました。清水さんと植物との対話ぶりでした。彼女は植物の世話をしながら、ほんとうにミカンやスイカ、カボチャなどと対話していました。植物のまえに立つごとに実際にことばに出して話しかけるのです。

「おまえ、大きくなれよ。今日はかなりお目様の照りがよくなるだろうから、大変だろうけど、頑張ってね」

 そういう姿勢は、植物を生き物だと心の底から認識しているからです。そこにこそ感動があるのであり、植物の生育も素晴らしいものになり、結実も美味になります。

 植物にことばをかける。そんなことで植物がうまく育つはずがない。それこそ科学する農業から外れるじゃないか。こんな反論があるでしょう。でもこんな例もあるのです。

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2016.08.16 Tuesday

金次郎さんに学ぶ天候予測

 金次郎さんが生きた天保時代と今が似ているというのが持論である。

 事実、1700年代に噴火したのは富士山(1707)三原山(1775)櫻島(1779)浅間山(1783)で、噴火していないのは富士山だけである。

 さらに天明と天保の飢饉の気象状況は、暖冬で雪が少なく春と夏が低温多雨で、今でいう異常気象であった。

 この時、金次郎さんは昼食のおかずのナスが初夏だというのに秋ナスの味がしたことに気づき、イネや道端の草を調べると葉の先が衰えていることから、その年の天候は陰気なので作物は実らないと直感した。

 金次郎さんは、陰陽のめぐりあわせから気象を判断できたらしく、百姓たちを集めて、地下にできる芋、大根、カブなど飢饉に強い野菜の種や冷害に強いヒエを播き、そのヒエが実ったら必ず蓄えておくように指示をした。

 しかし、百姓たちは”どうして今年のコメの豊凶を初夏の頃から知ることができようか? そんなにヒエばかり作っても誰も食べたがらない”と囁きあった。

 やがて金次郎さんが予想したとおり、盛夏になっても雨が降り続き、冷害によって凶作になったが、金次郎さんの指導のもとで一人の犠牲者も出さないで済んだ

 まさに、これこそが農業のインテリジェンス(智慧)で、「経験(K)+観察(K)+(K)洞察力」である。

 これを「農業の3K」といい、これを育むために愛媛県で産官共同で開発した「営農気象クラウド」の実用化に取り組み、NPO法人坂の上のクラウド利用研究会を発足させた。

 金次郎さんの時代には無かったIT技術や便利な道具は揃っているが

 果たして、今の農家や農業技術者は、金次郎さんの「インテリジェンス農業」に敵うかどうか!

 This is Question !

 

2016.08.12 Friday

金次郎さんの教え

 小田原の報徳二宮神社を後に、栢山にある小田原二宮尊徳記念館を訪れた。

 ここにある往年の金次郎さんの銅像の写真を撮るためである。

 金次郎さん七代目のご子孫である中桐万里子さんから、ここにある銅像が一番本人に似ているということをお聞きしていた。

 誰にも薪を背負って本を読んでいるという幼少期のイメージがあるが、身長は6尺(180儖幣紂、当時としては巨漢の部類だったらしい。頑固だったというが、風貌はどこか私の祖父を思い起こさせる

 記念館のボランティアガイドの方がいい人で、思いがけず、ツーショットの写真を撮っていただいた。

 私の身長は172僂世ら、やっぱり大きいや、ゴツッイなぁ!

 中桐さんは、”今でいうプロレスラーみたいで、怒られると怖かったでしょうね”と言っておられたが、よくわかるなぁ。

 この像は村を回っている時のいで立ちで、朝早くから夜遅くまで村を巡回しており、現場主義のリアリストだったことがわかる。

 金次郎さんの生家に入ると土間があり立派な家で、近所には預けられていた万兵衛さん宅があり、今もご子孫が住まわれている。

 この生家など金次郎さんに係るものが散逸していたのを買い取って集め保存したのは、真珠で有名な御木本幸吉さんであると記念館の方に教えていただいた。金次郎さんは、経済界の方に大きな影響を与えていたことは、このことでも理解できる。

 今回の報徳の旅で得たものは大きい。

 私にとっての「金次郎さんの教え」は、

 至誠・・・誠を尽し、やり遂げる

 勤労・・・弛まず学び、そして働く

 分度・・・自分の身の丈にあった分限を守る

 推譲・・・分度を超えたものを蓄積し、自分以外のことに役立てる

 

 あらし山に、この至誠」「勤労」「分度」「推譲」を額に掲げ、自分の仕事の目標にしよう!

 

金次郎さんと記念撮影

回村の像(往年の金次郎さん)

 

金次郎さんの生家

金次郎さんの生家

2016.08.08 Monday

金次郎像の由来

 7月5日、鷲山先生の紹介で小田原城内にある報徳二宮神社に、草山理事長さんを訪ねた。

 金次郎像の由来を聞くためである。

 金次郎像が最初に作られたのは明治43年で、彫金家「岡崎雪聲」(おかざきせっせい)が銅像を作り東京彫工会に出品した。この像を明治天皇が見られて気に入り買い上げられたという。

 そして、この銅像が学校に設置された金次郎像の基本的なデザインと言われており、現在は明治神宮宝物殿にあるらしい。

 金次郎さん七代目のご子孫である中桐万里子さんから、戦時中に金次郎さんの銅像は金属拠出令により出征したが、報徳二宮神社にある金次郎像はご神体であるため、唯一、拠出を免れて残っているとお聞きした。

 なるほど、台座にはしめ縄が張られ他の像とは存在価値が違う。

 (確か、わが年輪塾が実施した学校の金次郎像の調査では、堀江小学校の金次郎像は出征したが戦後の闇市で地元の人が見つけ、持って帰って台座に置くとピッタリだったという話があったなぁ。)

 この金次郎像に会うために、遠路、小田原城内にある報徳二宮神社にやってきた。

 さらに道を隔てたところにある報徳博物館で、金次郎さんの直筆を見た。

 学芸員さんによると、あまり字は上手ではなかったらしい。

 あぁ〜、ホッとしたぁ!

 

報徳二宮神社の金次郎像

報徳二宮神社の金次郎像(ご神体であるために残った唯一の戦前の銅像)

 

金次郎さんの直筆

金次郎さんの直筆(報徳博物館の許可を得て撮影)

2016.07.31 Sunday

大日本報徳社と掛川の報徳運動

 私が講話をさせていただいた7月3日の大日本報徳社7月常会は、なんと第1689回目であった。

 どんな時にも、欠かさず月の常会が行われたといいうから、140年の間たゆまず続いていたことになる。

 これは凄い!

 報徳運動は、江戸時代の終わり頃から、二宮金次郎の唱えた「報徳」を普及し、道徳と経済の調和を説き、困窮する農民の救済をはかる実学的な方法として全国に広まった。特に静岡県では明治時代には420社の「報徳社」が結成され、やがて掛川は全国の報徳運動の中心地となる。

 人間の欲を認めながらも周りとたくみに調和させ、心もお金も同時に豊かに育もうという金次郎さんの考えは、農村救済の枠を超えて幅広く浸透し、渋沢栄一安田善次郎豊田佐吉松下幸之助、土光俊夫をはじめ、多くの経済界の人たちにも多大な影響を与えたといわれている。

 そして、二宮金次郎さんから直接教えを受けた岡田佐平治・良一郎により遠江国報徳社が創設され、岡田良一郎は明治7年(1874年)に資産金貸付所を創設し、それが掛川信用組合を経て日本で最も古い掛川信用金庫となった。 

 さらに、産業に関する協同組合的な考え方は、やがて産業組合となり農業協同組合の原点となっている!

 大日本報徳社の事業は、戦後の混乱期で挫折しかかったが、GHQの好評価などでよみがえり日本の復興を担った。

 現在の榛村社長は第八代目で、元掛川市長で、生涯学習運動とまちづくりを推進されたことでも知られる。

 榛村社長は、大講堂など六つの近代和風木造建築群の保存修復を行われ、大日本報徳社は平成24年から公益社団法人に移行した。

 

 大日本報徳社の常会は「報徳訓」の唱和で始まる。

 この報徳訓は、金次郎さんの教えを108字にまとめたものである。

---「報徳訓」----

 「父母の根元は天地の令命に在り、 身体の根元は父母の生育に在り、子孫の相続は夫婦の丹精に在り」

  「父母の富貴は祖先の勤功に在り、わが身の富貴は父母の積善に在り、子孫の富貴は自己の勤労に在り」

  「身命の長養は衣食住の三つに在り、衣食住の三つは田畑山林に在り、田畑山林は人民の勤耕に在り」

  「今年の衣食は昨年の産業に在り、来年の衣食は今年の艱難に在り、年々歳々報徳を忘るべからず」

 

 続いて、榛村社長の講話があり、不肖私の講話と続いた。

 当日、二宮金次郎さん七代目のご子孫である中桐万里子さんが飛び入りで参加され、閉会後、榛村社長と鷲山先生ご夫妻とともに昼食を兼ねての懇談会と相成った次第である。

 これは、豪華メンバーですぞ〜。

 続いて、夜は夜で鷲山先生のご自宅で、地域の報徳メンバーとの交流会。

 鷲山先生のお父さんは生粋の報徳運動者で、ご自宅は豪農を思わせる歴史ある建物(築後120年ほど)で、これは補修管理が大変だ。

 集まった方々から、それぞれの報徳のお話を聞き、美味しいお酒とともに参った、マイッタ。

 というわけで、掛川の夜は更けていく。

 さすが、掛川はレベルが違う!

 

榛村社長の講和

■講話をされる榛村社長(掲げてあるのが報徳訓)

 

大日本報徳社での懇談

■向かって左から、金次郎さん七代目の中桐さん、鷲山先生ご夫妻、榛村社長

 

鷲山邸での交流会

■鷲山邸での交流会(向かって右に立っておられるのが、当邸の主人である鷲山先生)

 

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