風の便り from あらし山

雲の変化を愛でて、自然の移ろいを語り、人生の機微を楽しむ。ある時はミカン山から、ある時は雑踏の中から、雲の変化の如く・・・。
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鎌倉研の”Minato-machi Blues”

  〜 背のびして見る 海峡を 〜

 ・・で始まるこの歌は、ご存じ森進一が歌った「港町ブルース」である。

 初めて聞いたのは中学生の頃だったと思う。

 北海道の函館を皮切りに、鹿児島県の枕崎まで日本列島を南下するように多くの港町が歌われている。

 4番目の歌詞の最後に”八幡浜〜”と出てきた時は嬉しかった。

 山間とはいえ、生まれ育ったのは「魚とミカンの町 八幡浜」である。

 当地ソングと言えば、これしかない!

 ただ歌詞をよく見ると、港町とはいうもののほとんどが漁港である。

 しかも、いずれも太平洋側で日本海側の港町は入っていない。

 なんでだろう〜?

 この10月8日の「楽農ゼミナール」に、フォークシンガーの"鎌倉 研"さんに無理やりお願いして、ご当地ソングということで歌っていただいた。

 その折に、友人に”誰が詩を書いたんだろうね?”と尋ねられたが、作曲したのは猪俣公章さんだけど、アレっ誰だったけ?

 調べてみると、この曲は雑誌『平凡』が公募して、なかにし礼さんが補作したものらしい。

 皆さん、森進一は八幡浜を「やはたはま」と歌っていることを知ってましたぁ〜!

 

 それでは、"鎌倉 研”さんの「Minato-machi Blues」をお聴きください。

 松山には湊町もありますけど。

♪ 別れりゃ三月 待ちわびる

  女心の やるせなさ

  明日はいらない 今夜が欲しい

  港、高知 高松 八幡浜〜

 

忘れていた「報徳」の功労者 ”安居院庄七”(後)

 愛媛県農協中央会でいただいた本の参考文献の筆頭に「報徳開拓者 安居院義道」鷲山恭平:著とある。なにか聞き覚えがあるような気がするけど誰だろう・・・と調べると、大日本報徳社の鷲山社長のお祖父さんだった。ちなみに鷲山社長のお父さんも農業改良普及員をされ、農業技術の普及改良に尽力されたと聞き及んでいる。

 これも何かのご縁だなぁ!
 さて「報徳」を全国に広める志を立て郷里を後にした庄七は、旅先で村々の困窮と復興の様子や農業の実態を見て回った。金次郎さんの「新田開発は心田開発」の教えにも忠実で、人の心と同時に農業を大切にしていた。農業は素人だったが秦野の村の立て直しにに成功したこともあり、やがて最新の優れた農業技術・経営の指導者となる。それが「報徳」の普及に大いに役に立ち、お茶、養蚕、野菜。タバコなどの換金作物の導入や合理的で新しい栽培技術も指導したらしい。

 1847年春、弟とともに遠州浜松宿に近い下石田村(現在の浜松市東区下石田町)の庄屋・神谷与平治を訪れ、庄七なりに学び実践してきた報徳仕法を伝えると下石田報徳社を設立する運びとなった。「報徳社」とは報徳仕法を実践する地域の組織で、設立は3番目だが「報徳社」と初めて名乗った

 ここで特筆すべき点は、庄七が主導した遠州での「報徳」が農業技術の改良と結びついていたことである。最新の農業技術が「報徳」と一体となって広まっていき、「報徳」は当時の農民にとって先進的かつ実用的な教えだった。後になって大日本報徳社が農業技術の普及改良に力を入れ、それが農業協同組合に引き継がれたことも無関係ではない。

 安居院庄七は商人である。しかも金次郎さんに直接教えを受けたわけでもなく、金次郎さんの所にいたのは1ヶ月に満たず、金次郎さんが実践してきた仕法や考えを全て学び理解できる筈もない。遠州に伝わったのは庄七流の「報徳」で、金次郎さんが指導した「報徳」のやり方とは系統が違うかもしれないが、新しい意味での”「報徳」運動”だったのではないか。金次郎さんが手がけてきた報徳仕法は幕府や藩などによる上からのやり方(仕法)で、今でいう”行政プロジェクト”である。一方、庄七たちは庄屋が中心だったとは言え、あくまでも農民側の自発的な「運動」であった。

 そして1853年9月、ついに庄七たちは金次郎さんと面会を果たす。ただ「報徳社」を名乗っているものの「報徳」の創始者である金次郎さんから認知されていた組織ではなく教えを受けたわけでもなかったが、金次郎さんはこれら遠州報徳社を高く評価し、全て直系の報徳仕法組織として認知した。さらに岡田左平治の息子の良一郎の入門を認め直弟子とした。この良一郎の子供が、岡田良平、一木喜徳郎で、遠江国報徳社から大日本報徳社へと明治以降の「報徳」運動を牽引していくことになる。

 安居院庄七は、各地を回る時には農繁期には商業地域に、農閑期には農村に行っていたという。農業ばかりではなく商売の指導も行い、「報徳店」とか「元値商い」で、「現金掛け値なし」で繁盛させたという。教えを受けた商人たちは「売り先、買い先は父母の如く心得るべし」「苦労なければ利益なし」「信用はその身その家の資本なり」などを商家の心得とした。このことは「報徳」が企業活動に取り入れられ、多くの財界人が「報徳」思想を信奉していることと無関係ではない。庄七は、酒はほとんど飲まず、食べ物は質素で、服装は無頓着だったようだが、大日本報徳社の鷲山社長によると”庄七は苦労人で、人情の機微をよく心得ており、何か愛嬌があり憎めない人だったんだろうね”と言われていたのが記憶に新しい。

 庄七は歌が上手で、道歌が残っている。

 「乱杭(らんぐい)の長し短し人こころ 七に三たし五に五たすの十

 (乱杭は川辺に立てた杭のこと。長いものや短いものと色々あって、川の水の流れや水の量をうまく調節し、勢いをやわらげることで、長短の杭全体が護岸や堤防を守る働きをしている。人間は十の心が全般にわたって一番良いが、そんな人間はいない。人の心は七つの心、五つの心の、三の心もいる。それぞれの思い、考え方、知識は違うが、互いが理解し合い、助け合い、補い合うことで、十の優れたものになっていく。)

 1847年、安居院庄七は静岡県浜松市下石田に「報徳社」を設立した。同じころヨーロッパでは、1844年にイギリスで「ロッチデール校正先駆者組合」ができ、協同組合が誕生した。戦後、高度経済成長を経て豊かで便利になったが、一方で社会不安はますます広がっている。本当に豊かになったんだろうか?

 安居院庄七は、身を以て「運動」の大切さを教えてくれている。

 さらに今流の協働ではなく、あくまでも「協同」であることも。

 

 ♫ どんなものにもよさがある、どんなひとにもよさがある

  よさがそれぞれみなちがう、よさがいっぱいかくれてる

 ♫ 一人の人間は、とても弱いけれど、

  それでも皆が皆が集まれば、強くなれる、強くなれる

 

【報徳を広めた功労者:安居院庄七】

安居院庄七

【安居院庄七揮毫屏風(大日本報徳社蔵)】

安居院庄七揮毫屏風

 それ天に逆らえばすなわち道なく、地に逆らえば徳なし。

 しかるに本居より外に走れば、すなわち根国に没落す。

 ゆえに情を天地に斉しく、想いを風雲に乗せる者は、道の本に従うを為し、神の要を守るを為す。

 まさに万語の雑説を除き、一心を挙げて定準を知らんとす。

 すなわち天命配して、神気を嘗めん。

  (大日本報徳社「報徳誌」10月号より)

忘れていた「報徳」の功労者 ”安居院庄七”(前)

 最近、一冊の本の存在を思い出した。

 愛媛県農協中央会で仕事をしていた折に、”二宮金次郎は好きでしょう。良ければ、この本を差し上げます”といただいたものである。その時は、ちょっと”ケッタイナおっさん”やなぁと思って仕舞いこんでいた。

 それが、このところ急に思い出して、”アレ、どこに仕舞ってたんやろ”、”どこかにある筈なんやけど〜”、と急に探し始めたが見当たらない。冷や汗をかいたが、やっと本棚の思いがけない所から見つけ出した。

 どうも金次郎さんの「報徳」には、三つの系譜があるらしい。

 一つは金次郎さんの生地の小田原(箱根には福住正兄)、次に一番弟子の富田高慶の相馬で、続いて金次郎さんの晩年の頃に報徳が盛んにおこなわれるようになった遠州(現在の静岡県西部)である。ところが、これは「報徳」の元祖である金次郎さん達がまったく知らぬことだったらしい。

 この遠州の地に「報徳」を伝えたのが、”安居院庄七(あぐいしょうしち)”であった。

 このちょっと”ケッタイナおっさん”がいなかったら、金次郎さんが亡くなった後の「報徳」の広がりが説明できず、金次郎さんの「報徳」が農業協同組合の源流であることもなかった。しかも面白いのは、この安居院庄七のことを、金次郎さんはあまり知らなかったことである。なにしろ”安居院庄七”が、金次郎さんの所にいたのは僅か25日ほどで、教えを受けるどころか、言葉を交わすこともなかったという。実は、庄七がここに来たのは自分の家の商売に失敗し金に困り、金次郎さんの話を聞きつけ、金を貸してもらおうとやってきたのである。いざ来てみると、どうも自分が考えていたのとは随分と違った人らしいと気が付き、この間、下働きをしながら門弟たちから金次郎さんの教えをむさぼるように聞き、それを記録し書物を書き写し、猛勉強をした。滞在中、金次郎さんから教えを直接受けなかったことは、これから後の庄七の業績を考えると実に注目すべき事柄である。

 金次郎さんのもとから帰った庄七は、これまでの自分を反省し商売に励み成功する。

 その商いとは金次郎さんから学んだ「報徳商い」で、「売って喜び、買って喜ぶ。双方共々喜ぶ」「お客の立場でお客が求める商品の取り次ぎ役となる。自分中心の儲け主義は捨てる」というものだった。この時期に庄七は、「世の中は、合うようにして合わぬ。合わぬようで合うもの」という言葉を残している。 

 庄七の商売は繁盛し、商売のコツを聞きに来る人も現れるようになった。

 やがて、庄七は乞われて周辺の村にも金次郎さんの教え「報徳」を広め始め、これを全国に広める志を立て、金次郎さんの「一家を廃して万家を興さん」に倣い、弟と郷里・秦野をあとにする。

 行った先は、秦野から西に向かい河内国(大阪府南西部)で、ここで”万人講”を継承する。

 ”万人講”は、伊勢神宮、春日大社、石清水八幡宮を信仰する講で、講仲間を募り金を積み立て、これら三社に代参を派遣し灯篭を寄進したり、神楽を奉納したりする。旅行が珍しく、難しかった時代であり、代参の順番に当たった者は物見遊山を兼ねて旅ができた。やがて、浜松で「報徳社」を作ってからは「報徳」が主になり、その中に”万人講"の要素も入れていくようになる。

 このことが、後の報徳運動に影響を与えたと思っている。

 

【協同組合の原点「報徳」を広めた”安居院庄七”】

安居院庄七

(制作:JAはだの 秦野市農業協同組合)

 

愛媛報徳社あらし山「報徳塾」設立

 今月15日の事、掛川より大日本報徳社 鷲山恭彦社長ご夫妻をお招きして”愛媛報徳社あらし山「報徳塾」”の設立社員総会を開催した。私なりに年輪塾10年の学びを総括し、念願だった宮沢賢治の羅須地人協会のあらし山版とも言えるものである。

 四国初の報徳社で、趣旨に賛同する"公益社団法人 大日本報徳社"社員で構成する。

 「報徳社」は二宮金次郎の「報徳の志」を持った集まりで、地域を豊かにし、個々の暮らしを向上させるための事業を長らく行っている。以前、大日本報徳社より信用部門が分かれ信用組合になり、農業部門が分かれ農業協同組合になったと榛村前社長からお聞きしたことがある。いわば協同活動・協同組合の源流である。

 戦後、高度成長を経てこれらの協同活動も物質面で豊かになったためにやや足踏みした感があるが、今日では反動とも言える心の脆弱性があらわになり、本当に豊かになったがどうか疑問である。

 そのために二宮金次郎の「報徳」を学び、金次郎流の「芋こじ塾」”あらし山チロルの谷”に作ろうと思ったわけである。金次郎は理系であり、その考え方は科学的に説明できる。塾是に「天地の経文を読み解く」を掲げたのは、デジタルは道具でありリアル的思考の場が重要で、これから自らの体験を通して自得するという行為が意味を持ってくると思うからである。これは気象予報士としての私のライフワークでもある。そのためには自然の中で感性を磨くしかなく、”経験と観察と勘”農業の3Kであると、二宮金次郎がナスの味で冷夏を知った逸話が物語っている。

 次に「大學」の読み解きである。学校にある金次郎像が手に持っている本は「大學」であることを知っている人は多いが、そもそも「大學」という書物には何が書かれているか知っている人は意外に少ない。この「大學」には、福住正兄が書いた「二宮翁夜話」に出てくる所が多くある。我が報徳塾の「大學」指南役の辻先生によると、二宮金次郎は独学の人であり、「大學」に書いてある「明明徳」を天から学び体現した活学の人であるとのこと。この「大學」は報徳の源流であると思っている。

 続いて「文化力」の大切さである。先のミュージカル「KINJIRO」で感じたのは、意識付けに必要なものは感動であること。そのためには芸術的な要素が必要で、かつて農民を豊かにするために、宮澤賢治はレコードを聞かせチェロを奏でた。報徳を広く理解していただくために、唱歌に代わる新たな「報徳ソング」を作り歌いたい。私はフォークソング世代であり、ギターを弾き皆で歌い連帯を強めることを”シングアウト”という。あらし山チロルの谷では古くから組内ごとに念仏講があり、先祖に手を合わせ皆で念仏を唱えている。教会の讃美歌も同様ではないか。

 さらに各地に「報徳塾」なるものができればネットワークを作りたい。

 「報徳」の学びの連鎖で交流を広げられれば、「報徳」に新たな風が吹くと思う。そもそも協同組合はピラミッド型の組織(社)には適合せず、各々が小さいながら横に連携する蜘蛛の巣のような組織が向いている。これが形成できれば、なによりも変化に強い。「報徳」はこれからが本番である。

 

 愛媛報徳社あらし山「報徳塾」の塾是は「報徳学」(二宮金次郎)と「農民芸術概論綱要」(宮澤賢治)の融和をめざし、天地の経文を読み解き「誠の道」を探求する。教養を磨き文化力を高め、自らのアイデンティティーを確立するとともに、「報徳」の志を持ち「報徳ネットワーク」を形成することとした。

 

【あらしやま山荘に掲げた塾是】

天地の経文を読み解く

 

 学びの場というと大勢の人を一堂に集めた集合研修が主であるが、一方的な研修は身に付かないことが多い。報徳塾は金次郎流の「芋こじ塾」である。手の届く間合いで円卓を囲んで互いに学び議論をし、それぞれに自得する教えるほうも教えられるほうも学びあう。大坂の「適塾」や萩の「松下村塾」も、このようなスタイルであったと思っている。二宮金次郎の「報徳」は実践を尊ぶ。それは”自得する”ことから始まる。

 少数でも報徳塾の人たちがそれぞれに自得し、その周りで報徳の輪ができ連帯できたらいい。

 若いころに学んだ農業協同組合運動に習い、バンジョー片手に「報徳ソング」を歌いながら”オルグ”をすることが夢である。

 ”金次郎だけをみてると、金次郎がわからなくなるぞ”とは、年輪塾の若松進一塾長の名言である。

 このことを肝に銘じたい。

 さてさて、 

「報徳」とは”みんなちがって、みんないい”ことと見つけたり!

 

 塾訓は、以下のとおり。

 ・「大學」を読み解き、自ら至誠・勤労・分度・推譲を実践する。

 ・「農民芸術概論綱要」を自らの日常において実践する。

  ・「大學」の三綱領を実践し、自ら五事(貌・言・視・聴・思)を正す

 

【大日本報徳社 鷲山社長と共に】

愛媛報徳社設立総会

 

 鷲山社長ご夫妻のあらし山訪問は、実に7年ぶりである。

 鷲山社長が帰られる時に、”ここの風景はチロルの谷によく似ているね。もう一度行きたいと思ってるけど、ここで十分だね。”と言われた。それから、この生まれ育った風景を「あらし山チロルの谷」と称することとした。

 有難い!!

 

明暗を分けた石垣の存在

 先日、NPO法人坂の上のクラウド利用研究会の理事長をしてもらっているJWFの牧さんから電話があった。

 ”田舎には、いろんな山道があるやろ。山道には溝があって山水が出ると排水路になっている。それが最近では廃園などが多くなって手入れができていない。それが詰まって機能せず、山水が脇にそれて流れて崩れるようになっているんじゃないか”というものだった。実に身につまされる話であり、他人事ではない!

 今回の梅雨最終の豪雨被害は凄まじい。

 平地の川が氾濫し浸水被害もさることながら、至る所で土砂崩れが起こっている。

 昨日、所用で出かけた折のこと、柑橘園がスダレのように土砂崩れが起きた光景が目の前に広がった。

 見ると近年の園地造成で、斜面に柑橘を植えているだけの園地である。

 近くの石組み(石垣)の園地には、被害は見られない

 この状況は、あらし山の地元でも同様で、それも先祖が築いた石垣において顕著である。

 それにしても昔の人はエライものだ、地形を知り排水のスベ(術)を知ってのことである。

 タネ(谷)筋毎に排水路を小まめに設け縦に通る山道も排水路である。

 今や車が通らない山道は手入れが滞り荒れている所が多いが、これらの山道こそ重要な排水路であることを今回の豪雨は教えてくれている。

 この教訓を忘れてはいけない!

 

【柑橘園の土砂崩れ】

2018明浜豪雨被害(1)

【園内の排水路】

2018明浜豪雨被害(2)

【昔ながらの石組みの園地(無被害)】

2018明浜の石垣(無被害)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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