風の便り from あらし山

雲の変化を愛でて、自然の移ろいを語り、人生の機微を楽しむ。ある時はミカン山から、ある時は雑踏の中から、雲の変化の如く・・・。
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ハナミズキ(花水木)

 あらし山の”ハナミズキ”が白い花を咲かせている。

 山荘への私道の入口に何本か植えたのだが、耕土が浅いためか枯れたりしたので都度植え直したり、夏は潅水をしたりしてきた。そのせいか厳しい冬の寒波にも耐え、少しずつ大きくなり花を咲かせてくれている。

 ハナミズキの原産地は北アメリカ東部で、米国東海岸からミシシッピー川あたりまで自生しているという。

 そういえば、かつて読んだ”ジョン万次郎”の生涯を描いた小説「椿と花水木」(津本 陽)には、”花水木(ドック・ウッド)の薄紅や白の花が、けざやかに浮き立ちフェアヘブンの町なみの眺めをにぎわす六月がきた。”、という文章がある。万次郎が乗っていた漁船が難破し、漂流していたところを助けてくれた捕鯨船のホィットフィールド船長に伴われ過ごしたフェアヘブンの町はマサチューセッツ州にある。

 ハナミズキは米国では「ドッグ・ウッド」といい、この小説の「ドッグ・ウッド」の章には万次郎とキャサリンの淡い恋が描かれている。この恋が実際にあったかどうかは不明だが、多感な青年期の万次郎が米国で恋をしたと考えても不思議ではない。むしろ、このノン・フィクションかもしれない恋が、小説の中の万次郎を明るいものにしている。

 ”椿”は万次郎の生まれ育った足摺岬を、”花水木”は教育を受けた米国の街なみを表していると思うが、案外、万次郎とキャサリンの淡い恋心かもしれない。

 

 花水木には、一青窈”さんが作詞した「ハナミズキ」という名曲がある。

♬ 空を押し上げて

  手を伸ばす君 五月のこと
  どうか来てほしい
  水際まで来てほしい
  つぼみをあげよう
  庭のハナミズキ

  薄紅色の可愛い君のね
  果てない夢がちゃんと
  終わりますように
  君と好きな人が
  百年続きますように

 

 歌ってみたいと思うが、なにせリズムが難しい。

 でも花水木の花が綺麗に咲いてくれたので、ちよっと頑張ってみるかな。

 

【あらし山のハナミズキ】

 

180410ハナミズキ

コブシ(kobus)の花が咲いた

 あらし山のコブシの花が咲いた。

 苗木を植えてから、いつかいつかと心待ちにしていたが、ようやく花が咲いた。

 と言っても、♪こぶし咲く あの丘 北国の〜♪という「北国の春」の歌詞に出てくるから植えたわけではない。

 

 ”生きている鳥たちが 生きて飛び回る空を

  あなたに残しておいてやれるだろうか 父さんは

    目を閉じてごらんなさい 山が見えるでしょう

  近づいてご覧なさい 辛夷(こぶし)の花があるでしょう”

 ・・という、学生の時に高石ともやとナターシャセブンの「宵々山コンサート」のレコードで聴いた、この歌に共感したからである。

 「私の子供たちへ」という歌であること、作者は笠木透さんであることは後で知った。

 とにかく、レコードから歌詞を聞き取り、演奏すべくコードを探った。

 この歌は田舎の自然の中で育った者として、この環境をどう次代に遺していくかという問題提起をしてくれた。

 これが、今の「あらし山」の原点になっている。

 ”父さんは”というところは、”爺ちゃんは”となってはいるが・・。

 

 この花はモクレン科で、学名は”kobus”というらしい。

 別名「田打桜(たうちざくら)」や「種まき桜」ともいい、昔の人はこの花が咲く頃に 田植えを始めたり、種を蒔いたりした。花の向きから豊作になるとどうかを占ったりしたようである。蕾が開く直前の形が子供の握りこぶしに似ていることや、コブシの実はゴツゴツしていることから”こぶし”と名がついたとも言われる。

 花言葉は「信頼」である。

 

コブシの花

達成の桜

   2011年の桜は「再起動の桜」であった。

 長い間勤務した職場を退職した時に新居浜の武田さんから”リセット&再起動ですね”とのメッセージをいただいた。

 あぁ、そうかと思い、その年の桜は「再起動の桜」とした。

 今年は「達成の桜」である。

 両親がリタイアし、どうしようかと思っていた生家を「あらしやま山荘」としてリニューアルし、代々のミカン山も「あらし山」として再生することができた。この地で年輪塾で学んだことを反芻し、あらたに二宮金次郎の「報徳」と宮澤賢治の「農民芸術概論綱要」の融和をはかり実践をしてみようと思う。

 最後にやり残した”気象の仕事”も、この3月末を以て終了した。

 これからは気象予報士を取得した初志に帰り、義務感なくライフワークとして取り組もうと思う。

 空をみあげ雲の観察し、季節を感じる、フィールドに徹する「臨床気象学」を提唱したい。

 

 若松さんは去年の年輪塾処志検定の折に、”自分の寿命を想定し、後半の人生設計を組みたてよ”と言われていた。

 すでに82歳を人生の終焉と決めている。

 これは、あらしやま山荘を建てた祖父が亡くなった歳である。

 そして75歳をミカン作りの最後の歳と決めている。

 それは父の後ろ姿をみているからである。

 その歳になるとミカンのコンテナを持ち上げることが難しくなる。

 となると、あと10年が実働年齢といういうことになる。

 

 「大學」に”物に本末あり事に終始あり先後する所を知れば、則ち道に近し”とある。

 世間では今日から新年度が始まるが、あらし山では本日からラストステージが始まる。

 悠々自適なんて思っているわけではない。

 「遺し伝える」ことがテーマである。

 

 -- 「倚りかからず -----

 

 もはや、できあいの思想には倚りかかりたくない
 もはや、できあいの宗教には倚りかかりたくない
 
もはや、できあいの学問には倚りかかりたくない
 
もはや、いかなる権威にも倚りかかりたくはない

 ながく生きて、心底学んだのはそれぐらい
 じぶんの耳目、じぶんの二本足のみで立っていて
 なに不都合のことやある

 倚りかかるとすれば
 それは
、椅子の背もたれだけ

   (茨木のり子 「言の葉」より)

 

【桜が満開のあらし山】

桜2018

枝垂れ梅満開

 あらしやま山荘の枝垂れ梅が満開になりました。

 この枝垂れ梅は、祖父から生まれた時には、庭にこのような状態であったと聞いています。

 我が あらしやま山荘の庭のシンボルですね。

 毎朝、この梅の樹を眺めながら、朝食にフルーツを食べて、楽器を弾くのが日課です。

 去年は2月19日に満開でしたが、今年は3月3日が満開となりました。

 二週間ほど開花が遅れたことになります。

 梅の開花は、桜と比べて規則性に乏しく、開花時期の比較は難しいと言われていますが、そんなことはありません。

 梅は梅でキチンと冬の気象状況を教えてくれています。

 今年は梅の開花が遅れ、桜の開花は早まるようです。

 さて、そうなるとミカンの芽立ちや開花はどうなるのでしょう。

 これで品質が決まりそうなので・・・。

 とは言え、梅は咲いたが桜はまだかいなぁ〜の気分ですね。

 

180303枝垂れ梅満開

あらし山の紅茶

 愛媛県東予地方の山間にある新宮町に「脇製茶場」がある。

 この脇製茶場の先々代は、静岡で選抜されたばかりの「ヤブキタ種」をいち早く導入し、当時は困難とされていた挿木育苗に成功、四国全域に普及させ茶産地を育てた。近年では天敵利用で自然の生態系をとりもどすことに成功し、お茶の無農薬栽培を実現した。

 先代私は気象予報士を取得した頃からのお天気の繋がりで、先代から私の念願はヤマチャを再生することで、山間に自生するヤマチャでお茶をつくりたいと言っておられた。そのヤマチャで作られたお茶を、美味しくいただいたことがある。ちなみに先代は、ご健在である。

 そして、あらし山で紅茶を作るキッカケは、もう一つある。

 それは日本紅茶の会の藤原さんと佐賀の全国地域づくり団体交流会で同室になり、”あらし山で紅茶を作らないか”と、以前からから言われていた。それも自生しているヤマチャを活かして、「My紅茶」を作らないかということであった。

 

あらし山の山茶

 

 よく考えると、ミカン山の方々にお茶の樹がある。

 ご先祖様が植えて、かつてはお茶を自給していたんだと思うが、いままでは邪魔になるので草刈り機で刈りとばしていた。

 それから何年かは、草を刈るたびに草刈り機で丸く剪定をしていた。

 

 今年の5月のある日、徳島でアイリッシュのMareka&Junjiのライブを聴きに行った帰りに、丹原のちろりん農園に立ち寄った際、西川さん手作りの紅茶をご馳走になった。

 早速、その作り方を伝授していただき、あらし山に帰りミカン山のヤマチャを茶摘みし、自製の紅茶を作ってみた。

 

あらし山の紅茶

 

 これが、なんと初めてにしては上出来で、イケルではないか!

 続いて、最初の紅茶づくりを総括し、お茶の葉の粉砕の度合いと発酵時間を再考し、再び挑戦。

 これはさすがに気に入ったものができた。

 おぉ〜、「あらし山の紅茶」ができたぁ!

 

 お茶というと雰囲気が大切である。

 あらしやま山荘の縁側は、陽当たり抜群、眺め良しである。

 ここでモーニングティをいただき、「予報士メール」を書くなどNetで仕事をすることに決めた。

 「あらし山Cafe」の開設である。

 

あらし山Cafe

 

 あらし山に来られたお客様には、「あらし山の紅茶」でお持てなし

 この「あらし山Cafe」に佇み、天気の良い日は仕事をする。

 「あらし山の紅茶」は憩いのひととき。 

 鳥のさえずりを聴きながら、陽当たり良好! 

 これって最高ですよぉ!

 さあ、次は「あらし山スタジオ」だぁ。

 

平成29年春の桜事情

 今年の桜の開花は自分の記憶にないほど遅かった

 4月1日となると、去年まではとっくに満開近くなっており花見の頃到来である。

 それが今年の桜は蕾が固く、いっこうに咲く気配がない。

 ”Silent Spring”である。

 当初より、今年は西日本では休眠打破が鈍く関東より遅れる予想ではあったが、それに春先の低温が拍車をかけ異例の遅さになったものと思われる。

 それにしても、いつもより10日ほど桜の花が遅かった

 松山地方気象台の観測記録では、桜の開花が最も遅れた年は1957年(昭和32年)で、今年と同じく"酉年”である。

 過去の酉年をみると、

  ・1957年(昭和32年)は8月までは日照不足多雨傾向

  ・1969年(昭和44年)は西日本は梅雨の豪雨に見舞われ北日本は冷夏

  ・1981年(昭和56年)は春先に寒波が南下し夏から秋にかけて天候不安定

  ・1993年(平成5年)の夏は記録的な低温となり長雨と日照不足で平成の大凶作

 まさに「酉年は荒れる」の言い伝えのとおり不安定要素が多い。

 ”各々方、ご油断召さるなよ!”

 

■平成29年4月1日のあらし山の桜(今年)

170401桜開花せず

■平成28年4月2日のあらし山の桜(去年)

160402桜開花

ミカン作り名人おばあさん

 先日、「NPO法人 坂の上のクラウド利用研究会」の理事長農業法人JWF(ジェイ・ウイング・ファーム)の代表でもある牧 さんから電話があった。要件は、”本の中から、ある本が出てきてな。だいぶ前の本なんやけど、読み直してみるといい事が書いてある。今、やろうとしていることが全部書いてある。この本を書いた一ノ瀬さんは、よく知ってるんやないか。今は、どうされているのか知らないか?”というものであった。

 これらの本が書かれたのは1991年(左)と1995年(右)である。

 そして、私が愛媛県初となる気象予報士の資格を得たのは1995年のことである。

 その頃はインターネットの始まりの頃で、農業の情報化の必要性を感じた農業者たちが「農業情報利用研究会」を結成し、今の農業のIT化の先駆けとなった時期である。それを全国的に推進したのが農業情報利用研究会の事務局長であった田上隆一氏であり、最も強烈な影響を与えたのは、著者である株式会社IBC(宮崎県)社長の一ノ瀬正輝氏であった。彼は自社の社屋の屋上に気象衛星ひまわりの情報を直接受信する巨大なパラボラアンテナを設置し、現在は当たり前になったTVなどの気象衛星の画像解析の技術を開発した先駆者でもある。彼は農業に人一倍強い思い入れがあり、農業の情報化を自ら進めるために「ひまわりネット」を構築し、”科学する農業”を推進した。この取り組みの一部が富士通の農業システムであり、JA全農のアピネスなどにも取り入れられている。この時、全国の農業者がこぞって「ひまわりネット」の会員になり、経済連職員であった私も例外でなかった。

 今から21年前のことである。

 この3月11日に発足した「NPO法人 坂の上のクラウド利用研究会」は、これらの経験の上に設立したものである。

 

日本一農家のハイテク技術

実は、この本の中に母のことが「ミカン作り名人おばあさん」として書かれている。

著者の一ノ瀬さんは、何度か私の実家(現:あらし山)に来られており、それをベースに書かれたものである。

懐かしい母の想い出である。

   今も昔も変わっていないが、それにしても凄い内容だなぁ。

   当時私が経済連職員であったため、著者の一ノ瀬さんは私に配慮して原本には大洲市となっている。

------------- P173〜P177 -------------------------------------------------------

「ミカン作り名人おばあさん」

 肝心なのはハードウエア、つまり仕掛けじゃありません。そんなものはなくてもうまくやってるところはあります。その好例として、愛媛県八幡浜市の清水キミ子さん(六十八歳)というミカン作り名人おばあちゃんを紹介しましょう。

 彼女は元小学校の先生。お兄さんが戦争で亡くなったため、結局、彼女が教師を辞めて家業である農業を継ぎ、養子を貰われたとのことでした。長年にわたって農作業日記をつけておられ、それが段ボールに一杯になっていました。

 それを見せてもらったところ、非常にキメ細かに記録されたもので、私は驚いてしまいました。それがあると、昨年はこうだった、その前はこうだった、今年の葉の色がちょっと違う、だから今年はこうしよう…‥・というようにデータにもとづいて具体的に作業を変えられます。

 それが成果を生むのです。

 ミカンの剪定の方法も清水さんのやり方は、独自のものでした。

「農協の指導通りに彼らがいう暫定で枝を切ってしまったら実はならないよ。反対のことをした方がよい。あんな指導は聞かないことが一番」

 と言っていました。農協が指導する方法は、画一的過ぎるのです。植物の栽培法は木により、畑、土質などにより元肥も、窒素などの養分も違ってしかるべきで、農協の画一的なやり方では対応出来ないはずなのです。ところがダメ農家はそれに依存してしまう。これでは成果は上がりません。

 でも農協とはいろいろな面で付き合いがあるわけですから、指導員が指導する方法を無視するわけにいかない。ダメ農家はそのため義理で付き合うという部分もあるでしょうが、それによって植物がうまく育ち、期待通りの結実を見なければ、損するのは自分です。対面や義理どころじゃなくなります。

 この点、優秀農家は、一応相手の立場を考えて開いたことにしているけれども実際にはまったく反対なことをしている。あるいは最初から聞かない。両タイプがあります。どちらも結果的には農協の画一的なやり方に従っていないわけで、自分が研究したやり方を貫いていました。

 清水さんもそんな一人でしたが、彼女が独善に陥っていない証拠に、彼女のミカン園に行ってみたところ、枝がやわらかくて、たわわにミカンがなっていました。その一つをとって実際に食べたミカンのおいしかったこと。一千億円をかけた給水システムで育てたミカンとは比較にならないほどの味でした。

 農協が指導する剪定では、杖が硬くなってしまうのです。コチコチになってしまう。それはやり方が間違っているということです。でもその普及をやめようとしない。いったん決めた指導方針を曲げることは体面上出来ない。実際に指導に当たる指導員が疑問を持っているとしても、上司の手前それには逆らえない。こんなことで硬い枝、そしてまずい味覚になってしまうのです。ミカン栽培で一千万円の納税をしている田中さんも言っていたことですが、ミカンは枝がしなやかに曲がり、ぶら下がった恰好で実がなるところに糖が上がるのだそうです。農協のやり方は、この肝心な点を無視しているのです。

 ではなぜ農協はそんなやり方を押し通そうとしているのか。ミカンは通常は隔年結果といって一年おきになるのです。そこでそれを避けるために、少しなりを抑えて、毎年平均してならそうという考え方をしているからです。

 これはこれで正しいと思います。いちがいに否定出来ません。収益の安定化という観点から見るとそれなりの評価が出来ます。それに対して田中さんなどは、樹に任せて、なった時はなった時、ならない時はその時でいいという考え方をしています。

 通年で経営が安定するならいい。その代わり、おいしいミカンがなるわけですから、隔年でも十分経営が成り立つ。おいしければ価格が高く、一年おきになってもへっちゃらだというわけです。

 ですから田中さんの園地に行くと、こっちの樹は花が一杯咲いているのに、隣の樹はまったく咲いてないという状態のところがあります。それでも田中さんが平気なのは、規模が大きいこともあります。何しろ二十七ヘクタール以上ありますからね。それだけの余裕があるのです。

 でも規模が十〜三十アール程度では、隔年結果ではガタッと収穫が落ちてしまいます。そのうえ品質が悪く、並みの等級による取引しか出来ないとなると経営にモロに響いてしまいます。ミカン農家としては、暫定一つもおろそかに出来なくなるわけで、清水さんのように、

「農協の指導員の言うことなど聞いていたら、実がならない」は重要なものとして受け止める必要があるのではないでしょうか。ミカン農家にとっては死活問題に関わることなのですから。

 それに彼女に会って感動したことがもう一つありました。清水さんと植物との対話ぶりでした。彼女は植物の世話をしながら、ほんとうにミカンやスイカ、カボチャなどと対話していました。植物のまえに立つごとに実際にことばに出して話しかけるのです。

「おまえ、大きくなれよ。今日はかなりお目様の照りがよくなるだろうから、大変だろうけど、頑張ってね」

 そういう姿勢は、植物を生き物だと心の底から認識しているからです。そこにこそ感動があるのであり、植物の生育も素晴らしいものになり、結実も美味になります。

 植物にことばをかける。そんなことで植物がうまく育つはずがない。それこそ科学する農業から外れるじゃないか。こんな反論があるでしょう。でもこんな例もあるのです。

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一隅を照らす
  先日、京都の青蓮院という寺院に立ち寄った。
 このお寺は天台宗比叡山延暦寺の三門跡の一つで、天皇の皇子が住職となった古くから知られた寺院である。
 この青蓮院で一枚の金色の屏風の前に立ち止まった。
 そこには、こう書かれていた。

 「国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。
  道心ある者を名づけて国宝と為す。
  故に古人言わく、径寸十枚、是れ国宝にあらず、
  一隅を照す、此れ則ち国宝なりと」

 これは、伝教大師 最澄が僧侶を育てる学校の規則を定めた「山家学生式」にある言葉である。
 この「一隅を照らす」という言葉は、中国の故事による。

 魏という国と斉という国の王が狩りをしている時に、ばったりと出会った。
 そのとき、魏の王が
 「私のところには、よそにはないような立派な玉(ぎょく)がある」と言ったという。
 さらに、その玉は径寸といって、直径が一寸、今でいうと三センチメートルもある大きな玉であると。
 「この玉は非常に光が強くて、兵車十二乗を照らすことができる。
  私の国にはこういう玉が十個あり、これが宝の最たるものである。
  しかし、あなたの国は大変に大きい国ですから、
  立派な宝がたくさんあるでしょう」と、魏の王は、斉の王に聞いた。

 すると、斉の王は答えた。
 「私のところにはそういう立派な玉はありません。
  しかし一隅を照らす者、たとえば農業ならば農業、外交ならば外交と、
  それを担当させれば、立派に責任を果たす非常に優れた家臣が各所におります。
  これが私どもの宝です
  それを聞いた魏の王様は、恥じ入ってしまった。

  これが「一隅を照らす」の故事である。
  人材は宝であり、一隅を照らす人格を備えた人間がいれば周囲を照らしその徳に次第に人がなびいて集まってくる
  人生の晩秋に向かい、深く肝に銘じたい言葉である。
  これからの「志」としたい!

一隅を照らす
フェィド・アウェイ
 平成27年3月31日。
 今日で、足かけ40年にわたる農協組織での仕事を終える
 宮沢賢治に憧れて、学校では農芸化学を専攻し、
 昭和51年に、土壌肥料の技術者として、愛媛県経済農業協同組合連合会に入会した。
 以来、現場に生き一技術者として終えたことは本懐である

 " Old soldiers never die, but fade away. "
 一般に、"老兵は死なず、ただ消え去るのみ"と訳されているが、
 マッカーサーの米議会での最後のスピーチとして知られる、この言葉は英米の軍歌の一つとして親しまれたものであるらしい。
 「マッカーサーが後任にすべてを譲りさわやかに身を退きたい」という意味であるといわれる。
 しかし、本文では、老兵は「去る」などとはまったく述べられていない。
 老兵は、「fade awayする」と述べている。
 老兵は輝かしい戦功を残そうが残さない場合があろうが、多くの戦いを戦ってきた。
 その魂は永遠に生き続けるのであり、たとえ肉体はフェィド・アウェイしたとしても、その心は皆さんとともにあるのだ、というような意味である。

 終わりは、始まりでもある
 これからは、宮沢賢治の羅須地人協会をお手本したいと思う。
 これが、自分流の報徳であり孝行である。

 伝えたいことは、いっぱいある!

あらし山の桜
【あらし山 清見タンゴールと桜 2015.3.31】
農業協同組合の原点
 長い間、勤めてきた松山市南堀端にある愛媛県農協会館の玄関脇に、協同組合の原点といえる碑がある。
 書かれている言葉は・・・
  「一人は万人のため、万人は一人のため」(Each for All and All for Each)、である。

一人は万人のために

 一般には、<協同組合>の提唱者ロバート・オーエン』の言葉といわれているが、相互扶助を意味するこの言葉は、古代ゲルマン人の昔からの言い伝えで、航海する船の人たちの助け合いに由来するという説もある。
 フランスの作家 アレクサンドル・デュマの『三銃士』には、銃士たちの友情を表すモットーで登場し、英国で始まったラグビーの精神も、この言葉で今に引き継がれ、ヨーロッパではかなり前から広く使われていたといわれている。
 18世紀末から産業革命が進行して資本主義社会の矛盾が露わになってきた頃、協同組合運動の創始者オーエンの言葉として、ドイツ農協運動の父とされるライファイゼンが『信用組合論』に使ったのが初めとされる。
 また、イギリスの協同組合卸売連合会編の1930年版『人民年鑑』に「ひとりひとりはみんなのために、みんなはひとりひとりのために」(Each for All and All for One)と記されている。
 ラグビーでは、「One for all  all for one」 という
 農業協同組合は、農村が大恐慌のあおりを受け、どん底生活にあった明治33年に、一人ひとりでは弱い立場にあった農民が手を結び、助け合いの精神のもと産業組合として誕生した。
 その流れを受けつぎ、昭和22年に定められた農業協同組合法に基づき、各地で設立された。

 物事に行き詰まった時は、常に”基本に返れ”と教えられてきた
 「原点を持つ企業は強い」といわれる。
 原点への回帰こそが、必要なのではないか。
 「何のために」「誰のために」が問われている。
          

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