風の便り from あらし山

雲の変化を愛でて、自然の移ろいを語り、人生の機微を楽しむ。ある時はミカン山から、ある時は雑踏の中から、雲の変化の如く・・・。
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ミュージカル「KINJIRO!」松山公演

 先日、わらび座の担当者が”あらし山”に来られた。

電話で、どちらにいらっしゃいますか?と尋ねられ、あらし山だと答えると伺いますとのこと。

えっ、わざわざ山ん中まで来るのと思ったが、来るという。

 2月2日にあったミュージカル「KINJIRO!」松山公演のお礼らしい。

 二宮金次郎のミュージカル化を聞いたのは、一昨年の7月に掛川の大日本報徳社でのことだった。

 以前、年輪塾で県内の学校にある金次郎像の調査をしたこともあり、ぜひ愛媛県での公演を実現させ、広く二宮金次郎の人間像を知ってもらいたなと思った。

 それから少し経った頃に、わらび座から電話があり、愛媛でのミュージカル公演について話し合ったりした。

 愛媛での公演では、なにか他と違ったことをしたいと思い、わらび座にオープニングセレモニーを年輪塾でやりたいと持ち掛けた。二宮金次郎と言っても、その生涯を知っている人は少なく、そう言えば小学校に銅像があったなというくらいである。

 塾長の若松さんに、学校の金次郎像が持っている本に何が書かれているか?などを面白く話してもらい、KINJIROU Song(原曲は小学校唱歌)をシングアウトしてはどうかと考えた。さらに大洲市の西田さんからブルゾンの制作資金をいただいたので、当日は、揃いのプルゾンを着てオープニングセレモニーに臨むことになった。

 KINJIROU Songの練習は2回だったが、実質は半数以上の人が1回のみで本番となり、どうなることやらと思ったがなんとか終わりホッとひと安堵、いやはやなんとも。(下記のYouTubeでご覧ください。) 

 ミュージカルについては、さすが"わらび座"である。

 金次郎さんの人生を知っているだけに、初めはどうなる展開になるのか不安だったが、笛や太鼓など色々な楽器を総動員した迫力ある展開と、金次郎さんの後半の人生に焦点をあてた脚本が良かった。それにしても七人くらいの出演者で、入れ替われ立ち代わりの役どころで、あれもこれもと楽器を奏で迫力ある舞台には脱帽である。

 わらび座の担当者から出演者の色紙をいただいたときは感無量であった。

 我々のオープニングセレモニーは無謀というか、知らぬが仏というか。

 今思うと赤面の至りであるが、なんとか結果オーライだったらしい。

 肝心のミュージカルを観て、報徳運動も金次郎像から脱皮せねばと感じた。

 今や時代は変化しており、若い人たちの時代である。

 

180202ミュージカル「KINJIRO!」

 

処士(志)の意味を問う!

 11月23日(木)のことである。

 小説「中江藤樹」を書かれた作家の童門冬二さんと大洲市民会館でお会いすることができた。

 これは童門さんが大洲藩主加藤家-中江藤樹大洲入り400年事業で大洲市民大学に講演に来られることがわかり、特に辻先生にお願いして実現したものである。

 年輪塾では歴史上の人物を検証しながら自己研鑽をおこなっているが、二宮金次郎、ジョン万次郎に続いて中江藤樹先生を学んだ。その最初のテキストとして使用したのが「小説 中江藤樹」であった。

 この「小説 中江藤樹」に書かれていた「処士」に感動し、”処士になりたい”と叫んだのが当時県庁職員であった眞鍋さんである。

 小説には中江藤樹先生が「大學」を読んで感銘し、「処士」になろうと志を立てられたことが書かれていた。

 ゛「処士」というのはある程度の土地とか家屋などの財産を持っていて、生活するのにそれほど困らないという立場でありながら、自分の学説を国の外に出て説いて回る人々。「処士」というのは、この世に対する立身出世の私欲を捨てた存在だ。自分のまわりで暮らす人々の安寧だけを願っている。”

 その後、年輪塾では「中江藤樹学」の成果として、処士(志)の検定制度”をつくり、これを年輪塾の”修士課程”としている。

 年輪塾でいう処士(志)は、「大學」の素読と講釈ができる程度の学力を有し、処(ところ)を得て「志」を立て実践する

者をいう。「処志」となりたいものは、まず”処志師範”の薫陶を受け師範から推薦されなければならない。そのうえで処志検定試験を受けることになる。

 世の中には、ともすれば”本末転倒”になることが多い。

 大學には「物に本末あり、事に終始あり。先後するところを知れば、則(すなわち)道に近し」とある。

 仕事でも地域づくりでも、現象捉えるのみで学んでいることの多くは各論ハウツウであったりするすることが多い。

 人生においても仕事でも、直接的に役に立たない基礎的な学問が必要である。

 年輪塾で調査した二宮金次郎像が持っている本は「大學」であり、中江藤樹先生が感銘したのも「大學」である。

 だからこそ、年輪塾の「処志」になるためには必ず「大學」を自分のものにしなければならない

 

 この日、童門冬二さんにお会いし処志要綱をお渡しすると、小説に書いたことが実際に行われていることに驚かれた

 そして、次のようなことを教えていただいた。

 ・「処士」は現在の中国にはないが、実際に古代の中国において行われていたこと。 

 ・「大學」は論語などに比べると文字数が少ないが、孔子の教えの”唯一の理論書”であること。

  これをマスターすれば誰でも「処士」になることができる

 ・「処士」は、今でいえば経済的にも自立し、民間人だが政治や経済など物事に対してしっかりとした自説を持っており、組織などのリーダーに対して意見具申がキチンとできる人のことを言うこと。昔から大衆は付和雷同しやすく惑わされることが多いが、その大衆を導きアウフヘーベン(高揚)することができる人である。

 ・常に他人の立場にたって物事を考えることができる人でもある。

 

 処志師範の役割は「大學」をマスターする過程で人生の棚卸をし、それでもって新たに”志”を立てられるように導くことである。

 このことを眞鍋処士に続く、上田処志・兵頭処志が大學をマスターする過程で学んだ。

 そうでなければ、年輪塾の「処志」が”看板倒れ”になってしまう

 ”学ぶ”ということは難しい、これを還暦をすぎてから実感した。

 これも、いろいろとご指導いただいた辻先生のお蔭である。

 互いに向かい合って「大學」を通して人生を顧みると、次の人生が見えてくるから面白い!

 私塾とは、こうでなくっちゃ!

 

■作家 童門冬二さんと記念撮影

171123童門冬二さんと記念写真

学びてときに之を習う〜年輪塾「処志」〜

 年輪塾は開塾して10年が経過した。

 10年ひと昔と言われるが、ひとつの区切りであることに違いはない。

 この10年は塾訓にあるように、一期を2年として先人(宮澤賢治、宮本常一、二宮尊徳、ジョン万次郎、中江藤樹)に学んだきた。これらの先人に学びために、それぞれに伝道者を自ら選び出し、従来の内容にこだわらず、自分たちが嚙み砕くように学び、一期毎の終わりには公開セミナーを開くなど記録としても残してきた。

 多くの学びを得たと思ってはいるが、学びの真価はこれからである。

 

【大學】には、次のように書かれている。

 「その心を正しうせんと欲する者は、まずその意(こころばせ)を誠にす。

  その意(こころばせ)を誠にせんと欲する者は、まずその知を致す。

  知を致すは、物を格(ただ)すにあり。

 〜ここにある”意(ここばせ)”というのは、心の在り方である。

  「知を致す」ということは、知識を得て知恵に至るということである。

  「物を格す」とは「自分自身を正す」ことである。

  (自分も物の一つであり、突き詰めていえば自分を正すことになる)〜

 

『二宮翁夜話』には【大學】のこの一節について、下記のように記されている。

  ”まず智をみがき、礼を行い、義を踏み、仁に進むがよい。

   それゆえ大學では知をいたすを初歩としている。

   瓦というものは、みがいても玉にはならぬ。

   けれども幾分、光を生じて滑らかになる。

   これが「学びの徳」なのだ。”

 

『知行合一(ちこうごういつ)』

   【大學】には、

  ”知るというは行いの始めであり、行いは知るということが成ったものであって、実はこれは一つである。

  だから、行わなければ本当に知ったとは言えない”とある。

  これを「知行合一」といい、「知る」ことは「行う」ことと一つである。

 「二宮金次郎」は、この「知行合一」(知識と行動の一致)を自ら実践し、道徳に基づいた社会づくりを行い、豊かな実りと心の

  芳醇をもたらした人である。

 「道徳なき経済は悪であり、経済なき道徳は寝言である」という言葉は、掛川の大日本報徳社の経済と道徳の門となっている。

 

 もとより『知行合一』を実践するのが、年輪塾の「処志」である。

 もともとは「中江藤樹学」の中で、童門冬二さんが書かれた「小説 中江藤樹」にある「処士」を年輪塾流にしたものである。童門さんは、”君子=処士”と描かれているが、これを「知識」と「志」の検定をもって認定制度化した。

 年輪塾流の『知行合一』を実践するためには、「処(所)」いわゆる活動拠点を持ち、成し遂げる「志」が必要であるとの意味で「処志」が誕生した。

 今年の6月に「処士検定」(このときは処士だった)を実施し、第一号として眞鍋塾生が合格し「処士認定」を受け、処士の看板が若松塾長より授与されたことは記憶に新しい。

 さらに12月17日には、若松塾長が年輪塾の「処志」総括として人間牧場に看板を掲げ、辻先生と私が「処志」師範の認命を受け、この10年の学びを礎として新たな展開を行うこととなった。

 これから「処志」による年輪塾の私塾ネットワークが始まる!

 

■年輪塾「処志」総括看板を人間牧場に掲げる!

161217年輪塾「処志」総括看板

■年輪塾「処志」についての想いを語る若松塾長

161217年末塾にて

「年輪塾」十年の計
 若松進一さんが人間牧場を開設されて十年がたち、その水平線の家で、年輪塾公開セミナーを開いた。
 この10月3日のことである。
 年輪塾は、人間牧場と同じ時期に開塾し、早いもので足かけ十年が経とうとしている。
 この間、歴史的な先人に学ぶということで、5回の公開セミナーを開催した。
 第一回は、農民詩人でもある有機農業で有名な星 寛治さんを招いて、「宮沢賢治と私」というテーマで、農民芸術論を語っていただいた。
 第二回目は、民俗学の「宮本常一」を取りあげ、ノンフィクション作家の佐野眞一さんをお招きした。
 第三回目は、経済の視点ということで「二宮尊徳」を取りあげ、七代目のご子孫である中桐万里子さんをお招きした。
 第四回目は、土佐の偉人「ジョン万次郎」を取りあげ、市井のジョン万次郎研究家である青野 博さんにいろいろと教えていただいた。
 第五回目である今回は、地元学をということで、大洲の「中江藤樹」を取りあげ、中江 彰さんをお招きした。

年輪塾公開セミナー
 
 塾頭として、事にあたったが、自分の人生の棚卸しをしたようなものであった。
 出会いは、不思議なものである。
 まず、「二宮翁夜話」と出会った。
 自分なりに解釈した資料を編さんし、年輪塾のメーリングリストで配信した。
 この作業の中で、二宮金次郎の人となり、その思考法を学んだ。
 続いて、「学校の二宮金次郎像」の調査である。
 塾生全員が手分けをし、愛媛県内の全ての学校の金次郎像を、くまなく調べ上げた。
 この時に出会ったのが、「大學」である。
 金次郎像が手にしている本の内容は、全て「大學」の一節であることがわかった。
 
 そして、中江藤樹を学ぶうちに、なにごとも「大學」が基本であるということに気がついた。
 朱子学や陽明学だという人もいるが、”金次郎さん”も”与右もんさん(藤樹先生)”も、ともに学者が嫌いである。
 それではということで、 「大學」の素読を思い立ち、年輪塾で素読を始めた。
 門前の小僧で、読んでいるうちに、わかったような気になるから不思議である。
 
 「大學」に書かれていることは難しい。
 藤樹先生は、それを誰にでも分かり易い言葉にしている。
 それが、「五事を正す」である。
 地元の大洲藤樹会の辻会長に、扇子に書いていただいた。
 もちろん、辻会長は年輪塾の塾生でもあるが、文武両道の人である。
五事を正す

 この「五事を正す」こそが、年輪塾の十年の計である。

 私は、常に、十年が節目であると思っている。
 年輪塾のこの十年は、学びの十年であった。
 継続といいながら、変化しないものは続かない。
 年輪塾の開塾の目的のひとつは、「私塾ネットワーク」であった。

 まず、この十年にやり残したことを片づけたいと思う。
 ひとつは、宮本常一を学びなおすことである。
 二宮金次郎、ジョン万次郎、中江藤樹の目線で、宮本常一を捉え直したい。
 そこに、大きな学びがあると思う。
 二つめは、ジョン万次郎の”英語についてである。
 ジョン万次郎の功績の一つであるが、今、注目に値すると思っている。
 三つ目は、「論語」の現代語訳と解釈資料の配信である。
 年輪塾で、ひととおり全部、読み終えたい
 断片では、孔子の全容がわからないからである。 

 最後に、出来るかどうかわからないが、年輪塾の「処士」の資格をつくること。
 年輪塾も修了ということも考えていいのではないかと思う。
 まず、「大學」の素読と解釈ができることが学科で、知行合一のなかで実践していくことが実技であり、「五事を正す」ということも含まれる。
 修了者(処士)が、これから私塾ネットワークを形成していくことになるのではないか。

 なにごとにも節目は大切である。
 この年輪塾の十年、やっと重いものをおろせたような気がする。
 これからは、ひとつ、ひとつ、整理して、落葉樹が葉を落としていくように過ごしたい。
 人生には限りがあり何事も引き際が肝心である
あらためて「心学」を学ぶ 〜年輪塾 修学旅行 雑感〜
  やはり、行ってみなければわからない。
 現場をみれば、感じることが沢山ある。
 そんな旅だった。
 7月10日夜行バスに乗り、翌早朝、大阪に到着。
 高知・神奈川からの塾生と合流しつつ、一路、近江の国小川村(現:滋賀県高島市安曇川町)へ。
 列車の窓から見える琵琶湖畔は、学生時代の合宿以来、実に40年ぶりである。
 11日9時過ぎにJR安曇川駅に到着
 駅のホームを出ると、中江藤樹先生がお出迎え。
 JR安曇川駅の前にある中江藤樹像の顔が、大洲の藤樹像とは雰囲気が違う
 なんでだろう!

中江藤樹像(JR安曇川駅)

 午前中は中江彰先生の案内で、ゆかりの地を散策。
 中江彰先生は、10月3日の藤樹学公開セミナーの講師でお招きすることになるが、今回の修学旅行は、その招聘を兼ねての旅でもある。
 その中江彰先生の前で、こともあろうに「大學」の素読を決行、参加の塾生が輪読し一巡でなんとか終了。
 ホッと安堵。
 その後、藤樹記念館にて中江彰先生の講話があり、
 1.孝行の「孝」はの字は、老人(親)を子どもが背負う意味であること。
 2.「孝」の基本は「愛敬」で、親は子どもを愛し、子は親を敬うことであること。
 3.「孝」は突き詰めれば「太虚」であり、「万物一体の仁心」(伝習録)であること。
 4.々Х弌↓大學、C耆任鮟鼎鵑犬燭海函
  ・・・などを学んだ。
  再度、孝経を紐解かねば・・・。

中江彰先生

 同行の岡崎さんは、翌早朝から自転車で琵琶湖畔を長駆し取材。
 このあたりは家々に蔵があり、経済的に豊かだったんだろうねと教えてくれた。
 そう言えば、平坦地で琵琶湖の恵みがあり、地理的に都のバックヤードとして経済的に恵まれ、穏やかな土地柄と推察。
 藤樹先生はお母さんが心配だったこともあるが、生まれ育ったこの地への望郷の念も強かったに違いないと思ったりした。
 無理を押して、この地に帰ったことにより藤樹先生の学問が花を開いたが、大洲肱川と琵琶湖畔との風土の差は意外と大きいのかもしれない。
 また、藤樹先生は陽明学の祖といわれるが、その思想は王陽明に影響を受けつつも独自の思想としての「心学」だと此処にいると実感する。
 朱子学だ、陽明学だという学者の学問は、あまり意味がなく、金次郎さんは「天道」と「人道」を説いた人であるが、藤樹先生は「人道」を究めた人だと思ったりした。
 お二人から、学問とは人生を豊かにするためのもので、学問のための学問は不要だぞと言われたような気がした。
 藤樹先生の学問は「心学」であり、それは明徳を明らかにすることである。

藤樹先生のお墓
(左:中江藤樹先生のお墓、右:お母さんのお墓)
学びにおそき時はなし

  昨日、電話が鳴った。
 愛南町の上田来喜さんからである。
 ”明日、行きますのでよろしくお願いします”とのこと。
 ありぁ〜、すっかり忘れてたぁ!
 石鎚みすゞコスモスから、「金子みすゞ 生誕110年によせて 金子みすゞ物語」のご案内をいただいてたんだぁ。
金子みすゞチケット
 来喜さんは、もう常連である。
 年輪塾で一度、石鎚みすゞコスモスの催しで、「金子みすゞ」と出会ってから恒例行事のように参加されている。
 それも愛媛県の南端の愛南町を朝6時に出発し、片道4時間をかけて新居浜市まで、日帰りでやってくる。
 今年は、少し趣向が変わり、矢崎節夫先生が「金子みすゞ」を発見した原点に帰った内容であった。
 一龍斎春水先生の講談、らくさぶろうの朗読、そして矢崎節夫先生の講話と続き、あらためて「金子みすゞ」と再会したような気がした。
 今回は、特に一人娘の”ふさえ”さんにお会いできた。
 86歳になられ、命を賭して娘を守ったお母さんの真意がわからず悩まれたこと、やっとお母さんと向かい合うことができたこと、などを話され、感無量でお聞きした。
 まさに、心が洗われるひとときであった。

 金子みすゞの詩もさることながら、矢崎節夫先生のお話が実にいい
 矢崎節夫先生のお話を聞くために、毎年、参加しているようなものである。
 そのまなざしが実にやさしく、温かい。
 かくありたいと思って帰るのだが、いまだ実行できないでいる。
 今日は、仏教でいう空(くう)についてわかった気がした。

 歳を重ねないとわからないことがある。
 ありがとう、来喜さん、電話をいただいたお陰です。
 お礼に、主催された石鎚みすゞコスモスの矢幡代表とのツーショットをお送りします。

上田来喜さん
 

 

みすゞさんとダイダイと・・豊予海峡

  関西汽船で小倉まで、小倉から仙崎までJR普通列車で仙崎へ。
 目的地である仙崎は、詩人金子みすゞさんの故郷である。
  鈍行はいいなぁ、それも目一杯貸し切りだぁ。
 途中からギターを出して、みんなで金子みすゞさんの「このみち」の練習をする。
  ”このみちの先には、大きな森があ〜ろうよ”
  ”みんなで、みんなでゆこうよ、このみちをいこうよ〜”
 それから一人弾きを楽しむ。
 鈍行はいいなぁ、ランブリン・ホーボーだぁ。

仙崎にて 【仙崎 極楽寺にて】

 仙崎の町に着くと、なぜか懐かしい気がした。
 いつか来たことがあるような・・・。
 そうかぁ、港町特有の匂いがするんだ。
 八幡浜にも三津浜にも同じ匂いがあり、雰囲気がある。
 歩くと、昔の隆盛の名残やみすゞさんの面影が路地裏から覗いたりする。
  ”遊ぼうっていうと 遊ぼうっていう”
   ”ばかっていうと ばかっていう”
  ご案内いただいた草場さんのガイドが実にいい。
 みすゞさんの詩が好きでたまらないという感じで、笑いながら、ここにもあそこにもと詩作の舞台を教えていただいた。
 こうでなくっちゃ。

松下村塾にて 【松下村塾にて】

 翌日、起きると見る間に雪が積もる。
 今も現役の小学校である明倫館を見学、威風堂々とした姿はさすが長州藩校だけある。 
 龍馬の訪問、萩の乱など維新回天の現場がそこにあった。
 それから二十年ぶりの松下村塾へ
 私塾のかたちが間近にある、学問の基本は実学なんだぁ。

萩のダイダイ 【萩のダイダイ(夏柑)】

 雪景色の萩に出会うとは、なんて運がいいんだろう。
 夏みかんに雪が積もっている。
 ここでは、夏みかんを”ダイダイ”というらしい。
 わが地元の西宇和地方と同様である。
 我が家は、古くからダイダイ(夏柑)を栽培していた。
 祖父がダイダイの一反で、一年の家計が賄えたと言っていたことを思い出した。
 一家総出でダイダイを採り、カマスに詰めて段々畑を”負いこ”で背負って運んでいた。
 ダイダイ採りは初夏の光景である。懐かしい。
 ダイダイは明治の頃、仙崎から萩を経て三崎半島に、わが西宇和地方に伝播したのかもしれないな。
 この雪が日本海から関門海峡を経て、南予に雪をもたらすように。
 そう言えば、萩の直売所で”フカの湯ざらし”を見かけた。
 聞くと、酢みそで食べる習慣があるらしい。
 蒲鉾・ちくわの主原料はエソ、フカの湯ざらし、ダイダイ・・とくると、
 どうやら我が西宇和地方の産業と食文化は豊予海峡を渡ってきたらしい。

 豊予海峡交流の旅は、わがルーツをたどる旅でもあった。

ちろりん農園 西川さんと 【永遠の酔っぱらい西川さんと】

学びてこれを習う

  「子曰く、学びて時にこれを習う。また説(よろこ)ばしからずや
  朋(とも)遠方より来たるあり。また楽しからずや。
  人知らずして憤(いきど)らず。また君子ならずや」

 『論語』の冒頭に出てくる有名な一節である。
 「学びて」というのは、そのまま「学ぶ」ということであるが、ここでいう「習う」というのは「繰り返してまたやる」という意味である。いまではあまり使われなくなったが”おさらい”をするという言葉がある。たとえばピアノを習っている人が”おさらい”をするようなことが「習」に当たる。あるいは、昔学んだ本をもう一度読み返すようなことも「習」に入る。一度きりで終わらせるのではなく、反復学習すること、それは喜ばしいことだと論語は教えている。”おさらい”は、お復習い、お温習いとも書くようで、同じことを繰り返し学習することが、学ぶことの本質であるように思える。
 

あらし山年輪塾看板


 今年の7月、「あらし山年輪塾」が開塾した。
 双海町の若松進一さんを塾長とする歴史的人物に学ぶ私塾「年輪塾」に参加して、宮澤賢治の羅須地人協会のようなものを父祖の地である「あらし山」につくりたいという夢の一部がようやく実現した。年輪塾も宮本常一から二宮尊徳にシフトして、現在は「尊徳学」が学習テーマである。二宮尊徳は「大学」「論語」をはじめとする四書五経を読んでいるが、その読書方法は本質をいち早く把握してしまう独特なもので、読んでいて間違いがあれば、その部分を削り取るなど、その意気込みは凄まじかったという。書いてあることをそのまま鵜呑みするのではなく、当時の数少ない学書の中から自分の経験と合っている箇所を見逃さず、机上の学問ではなく、常に自分が持っている疑問を解決するためのもので、すぐにこれを実践しようとした。その尊徳をして「四書五経」にはついに間違いがなかったという。
 

100724尊徳塾学習風景


 「朋遠方より来たるあり」は、同学同志の友人が遠い所を訪ねて来て、お互いに切瑳琢磨してますますその善は広がっていく、まことに楽しいかぎりではないかと論語にある。あらし山での「尊徳塾」の折には、遠路、年輪塾の皆さんが参加していただき、あらし山の地元からも参加があり学びの楽しさを語り合った。これまた楽しからずやである。
 いいまで辿ったなかには、自分が学び世に用いられるべき資質が備わったにもかかわらず登用されないことがある。組織のなかでは正しい方向だと主張しても用いられずに、左遷や辛酸を経験したこともある。しかし、たとえそういう立場におかれても天を咎(とが)めず人を恨まず、ひたすらその道を究め楽しむというのが「人知らずして憤らず、また君子ならずや」の意味である。「憤る」というのは「息が滞る」という意味でムッとするような感じをいうが、そのように腹を立てない人は立派な君子というべきではないか、と論語に教えられた。
 人生の秋を迎え、二宮尊徳を通じて論語に触れた。今にならなければわからないことも多い。まさに人生の修養をしているといっていい。渋沢栄一は自著「論語講義」のなかで、「論語』のこの教訓を守り続け、自分のできる限りのことさえやり尽くせば、たとえその成果が人に知られなくても、世間に容られようが容られまいが一向頓着無く、怒ったりすることなくやっていける、と書いている。
 二宮尊徳はものごとの基本は「他利」であると説いている。
 ここにきて、ようやくわが身が収まった感がある。
 まさに、学びてこれを習うである・・・。
 

100724尊徳塾交流会

 

忘れてしまった日本人
土佐源氏(竜王橋)
                【写真】土佐源氏の舞台となった竜王橋(高知県檮原町)

 決まって、毎年七夕の日は”カワガエ(川替え?)”と称する飲料水タンク掃除の日である。今年も8月7日に近所5軒が集まってタンクの清掃をし、御神酒をいただいた。そこで誰ともなく、どこそこの園地は草も刈らずに荒れているが中山間地域(等)直接支払制度での問題はないのかという話になった。どうやら荒れているのは、我があらし山だけではないらしい。いまや中山間地は人口は減り、高齢化が際だち「過疎地」という負の言葉で語られることが多く、限界集落との烙印も押され流行語のように使われている。
 ”自然はさびしい
  しかし、人の手が加わると暖かくなる
  その暖かなものを求めて歩いてみよう。”
 これは、旅する民俗学者と言われた宮本常一の言葉である。
 彼は、日本の村という村、島という島を隈なく歩き、そこに生きる人々の暮らしを正確に記録した比類無き民俗学者である。このごく当たり前の庶民の暮らしや何の変哲のない風景などを撮影し、約10万枚の写真を残している。そこには東京オリンピックを境に高度経済成長期を経て日本人が捨て去ってきたものやかつて持っていたものの見方などが写し出されている。
 ユズの村として有名になった馬路村農協(高知県)の東谷組合長は、新聞で次のような記事を読み、それが彼の原点になったという。
----------豊かさの終着点---------------------------------------------------------
 戦後、多くの人々が豊かな生活、豊かな地域、豊かな国をつくろうとして働き続けた。しかし、ふと立ち止まって周りを見回すと、効率をキーワードに、確かに便利にはなったが、山は荒れ、先人が営々と築いた小さな田畑は次々と消えていた。富が集積したはずの中央は水や空気が汚染され、自然豊かな地方はいつの間にか非効率と指弾されている。我々が追い求めた豊かさの終着点が、これなのだろうか。
------------------------------------------------------------------------------
 いつでも、どんなときでも、失ってはならないものがある。
 初めて訪れた宮本常一記念館とも言える「周防大島文化交流センター」で、宮本常一の本を読むのならこの本がいいですよと声をかけられ、紹介されたのが名著「忘れられた日本人」であった。振り向くと、その声の主は見知らぬ外国の人である。
 本当に大切なものを、日本人は忘れてしまったのかもしれないな!
宮本常一ウォーキング
                   【写真】宮本常一を辿るウォーキング(野村町〜檮原町)
崩れゆく記憶

2009あらし山の石垣
                        【写真】あらし山・山荘の石垣
 ちろりん農園の西川さんから「ちろりんだより」があらし山に届いた。
 小さい字ながら手書きできちんと書いてある。パソコンやワープロなどの機械的な文字と比べてあたたかく温もりがある。自称:象形文字の身としてはなんともうらやましい。編集後記に“今年の冬はほんとうに雨が多く、冬は乾燥という従来のイメージはどこかへ流されてしまいました”と書いてある。梅雨に入ってもなかなか雨が降らず、今年は雨が少ないという感があるが、そうか冬は雨が多かったんだということを思い出した。のど元過ぎれば・・ではないが、なんともあいまいな記憶である。
 「記憶」が崩れていく時代といわれている。
 「記録されたものしか記憶されない」と言ったのは、旅する巨人と言われた民俗学者 宮本常一である。著作の「忘れられた日本人」には、文化的に重要なものであっても記録することによって人々の記憶に残り、記録されないものはやがて忘れられると書いている。また「民俗学の旅」では“私は長い間歩き続けてきた、そして多くの人に会い、多くのものを見てきた。その長い道程の中で考えつづけた一つは、いったい進歩というのは何であろうか発展とは何であろうかということであった”とも書いている。宮本常一は、くまなく日本中を歩き、農山漁村に残る習慣や伝統を古老から聞いて書き残し、写真に撮り、膨大な記録を残している。歩いた所を地図におとしたら日本地図が真っ赤になると言われた。
 変化や効率、グローバル化などにより、私たちがもっていた自然や地域の記憶も、受け継がれてきた仕事や暮らしの記憶も、引き継がれることなく途絶えていく時代になった。地域に保存されていた記憶が途切れはじめ、受け継いできた記憶が崩れたとき、歴史や文化も継承できずに風化し始める。どれだけかかっても絶対につくり直せないものがある。それは日々の暮らしの長い時間の積み重ねで紡がれてきた目に見えない資産である。
 なにが幸せでなにが大切か。
 不易と流行。
 「ちろりんだより」を読みながらそう思った。
 梅雨の晴れ間の出来事である。
泉谷の棚田
                   【写真】泉谷の棚田(内子町五十崎)

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