風の便り from あらし山

雲の変化を愛でて、自然の移ろいを語り、人生の機微を楽しむ。ある時はミカン山から、ある時は雑踏の中から、雲の変化の如く・・・。
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忘れていた「報徳」の功労者 ”安居院庄七”(後)

 愛媛県農協中央会でいただいた本の参考文献の筆頭に「報徳開拓者 安居院義道」鷲山恭平:著とある。なにか聞き覚えがあるような気がするけど誰だろう・・・と調べると、大日本報徳社の鷲山社長のお祖父さんだった。ちなみに鷲山社長のお父さんも農業改良普及員をされ、農業技術の普及改良に尽力されたと聞き及んでいる。

 これも何かのご縁だなぁ!
 さて「報徳」を全国に広める志を立て郷里を後にした庄七は、旅先で村々の困窮と復興の様子や農業の実態を見て回った。金次郎さんの「新田開発は心田開発」の教えにも忠実で、人の心と同時に農業を大切にしていた。農業は素人だったが秦野の村の立て直しにに成功したこともあり、やがて最新の優れた農業技術・経営の指導者となる。それが「報徳」の普及に大いに役に立ち、お茶、養蚕、野菜。タバコなどの換金作物の導入や合理的で新しい栽培技術も指導したらしい。

 1847年春、弟とともに遠州浜松宿に近い下石田村(現在の浜松市東区下石田町)の庄屋・神谷与平治を訪れ、庄七なりに学び実践してきた報徳仕法を伝えると下石田報徳社を設立する運びとなった。「報徳社」とは報徳仕法を実践する地域の組織で、設立は3番目だが「報徳社」と初めて名乗った

 ここで特筆すべき点は、庄七が主導した遠州での「報徳」が農業技術の改良と結びついていたことである。最新の農業技術が「報徳」と一体となって広まっていき、「報徳」は当時の農民にとって先進的かつ実用的な教えだった。後になって大日本報徳社が農業技術の普及改良に力を入れ、それが農業協同組合に引き継がれたことも無関係ではない。

 安居院庄七は商人である。しかも金次郎さんに直接教えを受けたわけでもなく、金次郎さんの所にいたのは1ヶ月に満たず、金次郎さんが実践してきた仕法や考えを全て学び理解できる筈もない。遠州に伝わったのは庄七流の「報徳」で、金次郎さんが指導した「報徳」のやり方とは系統が違うかもしれないが、新しい意味での”「報徳」運動”だったのではないか。金次郎さんが手がけてきた報徳仕法は幕府や藩などによる上からのやり方(仕法)で、今でいう”行政プロジェクト”である。一方、庄七たちは庄屋が中心だったとは言え、あくまでも農民側の自発的な「運動」であった。

 そして1853年9月、ついに庄七たちは金次郎さんと面会を果たす。ただ「報徳社」を名乗っているものの「報徳」の創始者である金次郎さんから認知されていた組織ではなく教えを受けたわけでもなかったが、金次郎さんはこれら遠州報徳社を高く評価し、全て直系の報徳仕法組織として認知した。さらに岡田左平治の息子の良一郎の入門を認め直弟子とした。この良一郎の子供が、岡田良平、一木喜徳郎で、遠江国報徳社から大日本報徳社へと明治以降の「報徳」運動を牽引していくことになる。

 安居院庄七は、各地を回る時には農繁期には商業地域に、農閑期には農村に行っていたという。農業ばかりではなく商売の指導も行い、「報徳店」とか「元値商い」で、「現金掛け値なし」で繁盛させたという。教えを受けた商人たちは「売り先、買い先は父母の如く心得るべし」「苦労なければ利益なし」「信用はその身その家の資本なり」などを商家の心得とした。このことは「報徳」が企業活動に取り入れられ、多くの財界人が「報徳」思想を信奉していることと無関係ではない。庄七は、酒はほとんど飲まず、食べ物は質素で、服装は無頓着だったようだが、大日本報徳社の鷲山社長によると”庄七は苦労人で、人情の機微をよく心得ており、何か愛嬌があり憎めない人だったんだろうね”と言われていたのが記憶に新しい。

 庄七は歌が上手で、道歌が残っている。

 「乱杭(らんぐい)の長し短し人こころ 七に三たし五に五たすの十

 (乱杭は川辺に立てた杭のこと。長いものや短いものと色々あって、川の水の流れや水の量をうまく調節し、勢いをやわらげることで、長短の杭全体が護岸や堤防を守る働きをしている。人間は十の心が全般にわたって一番良いが、そんな人間はいない。人の心は七つの心、五つの心の、三の心もいる。それぞれの思い、考え方、知識は違うが、互いが理解し合い、助け合い、補い合うことで、十の優れたものになっていく。)

 1847年、安居院庄七は静岡県浜松市下石田に「報徳社」を設立した。同じころヨーロッパでは、1844年にイギリスで「ロッチデール校正先駆者組合」ができ、協同組合が誕生した。戦後、高度経済成長を経て豊かで便利になったが、一方で社会不安はますます広がっている。本当に豊かになったんだろうか?

 安居院庄七は、身を以て「運動」の大切さを教えてくれている。

 さらに今流の協働ではなく、あくまでも「協同」であることも。

 

 ♫ どんなものにもよさがある、どんなひとにもよさがある

  よさがそれぞれみなちがう、よさがいっぱいかくれてる

 ♫ 一人の人間は、とても弱いけれど、

  それでも皆が皆が集まれば、強くなれる、強くなれる

 

【報徳を広めた功労者:安居院庄七】

安居院庄七

【安居院庄七揮毫屏風(大日本報徳社蔵)】

安居院庄七揮毫屏風

 それ天に逆らえばすなわち道なく、地に逆らえば徳なし。

 しかるに本居より外に走れば、すなわち根国に没落す。

 ゆえに情を天地に斉しく、想いを風雲に乗せる者は、道の本に従うを為し、神の要を守るを為す。

 まさに万語の雑説を除き、一心を挙げて定準を知らんとす。

 すなわち天命配して、神気を嘗めん。

  (大日本報徳社「報徳誌」10月号より)

忘れていた「報徳」の功労者 ”安居院庄七”(前)

 最近、一冊の本の存在を思い出した。

 愛媛県農協中央会で仕事をしていた折に、”二宮金次郎は好きでしょう。良ければ、この本を差し上げます”といただいたものである。その時は、ちょっと”ケッタイナおっさん”やなぁと思って仕舞いこんでいた。

 それが、このところ急に思い出して、”アレ、どこに仕舞ってたんやろ”、”どこかにある筈なんやけど〜”、と急に探し始めたが見当たらない。冷や汗をかいたが、やっと本棚の思いがけない所から見つけ出した。

 どうも金次郎さんの「報徳」には、三つの系譜があるらしい。

 一つは金次郎さんの生地の小田原(箱根には福住正兄)、次に一番弟子の富田高慶の相馬で、続いて金次郎さんの晩年の頃に報徳が盛んにおこなわれるようになった遠州(現在の静岡県西部)である。ところが、これは「報徳」の元祖である金次郎さん達がまったく知らぬことだったらしい。

 この遠州の地に「報徳」を伝えたのが、”安居院庄七(あぐいしょうしち)”であった。

 このちょっと”ケッタイナおっさん”がいなかったら、金次郎さんが亡くなった後の「報徳」の広がりが説明できず、金次郎さんの「報徳」が農業協同組合の源流であることもなかった。しかも面白いのは、この安居院庄七のことを、金次郎さんはあまり知らなかったことである。なにしろ”安居院庄七”が、金次郎さんの所にいたのは僅か25日ほどで、教えを受けるどころか、言葉を交わすこともなかったという。実は、庄七がここに来たのは自分の家の商売に失敗し金に困り、金次郎さんの話を聞きつけ、金を貸してもらおうとやってきたのである。いざ来てみると、どうも自分が考えていたのとは随分と違った人らしいと気が付き、この間、下働きをしながら門弟たちから金次郎さんの教えをむさぼるように聞き、それを記録し書物を書き写し、猛勉強をした。滞在中、金次郎さんから教えを直接受けなかったことは、これから後の庄七の業績を考えると実に注目すべき事柄である。

 金次郎さんのもとから帰った庄七は、これまでの自分を反省し商売に励み成功する。

 その商いとは金次郎さんから学んだ「報徳商い」で、「売って喜び、買って喜ぶ。双方共々喜ぶ」「お客の立場でお客が求める商品の取り次ぎ役となる。自分中心の儲け主義は捨てる」というものだった。この時期に庄七は、「世の中は、合うようにして合わぬ。合わぬようで合うもの」という言葉を残している。 

 庄七の商売は繁盛し、商売のコツを聞きに来る人も現れるようになった。

 やがて、庄七は乞われて周辺の村にも金次郎さんの教え「報徳」を広め始め、これを全国に広める志を立て、金次郎さんの「一家を廃して万家を興さん」に倣い、弟と郷里・秦野をあとにする。

 行った先は、秦野から西に向かい河内国(大阪府南西部)で、ここで”万人講”を継承する。

 ”万人講”は、伊勢神宮、春日大社、石清水八幡宮を信仰する講で、講仲間を募り金を積み立て、これら三社に代参を派遣し灯篭を寄進したり、神楽を奉納したりする。旅行が珍しく、難しかった時代であり、代参の順番に当たった者は物見遊山を兼ねて旅ができた。やがて、浜松で「報徳社」を作ってからは「報徳」が主になり、その中に”万人講"の要素も入れていくようになる。

 このことが、後の報徳運動に影響を与えたと思っている。

 

【協同組合の原点「報徳」を広めた”安居院庄七”】

安居院庄七

(制作:JAはだの 秦野市農業協同組合)

 

愛媛報徳社あらし山「報徳塾」設立

 今月15日の事、掛川より大日本報徳社 鷲山恭彦社長ご夫妻をお招きして”愛媛報徳社あらし山「報徳塾」”の設立社員総会を開催した。私なりに年輪塾10年の学びを総括し、念願だった宮沢賢治の羅須地人協会のあらし山版とも言えるものである。

 四国初の報徳社で、趣旨に賛同する"公益社団法人 大日本報徳社"社員で構成する。

 「報徳社」は二宮金次郎の「報徳の志」を持った集まりで、地域を豊かにし、個々の暮らしを向上させるための事業を長らく行っている。以前、大日本報徳社より信用部門が分かれ信用組合になり、農業部門が分かれ農業協同組合になったと榛村前社長からお聞きしたことがある。いわば協同活動・協同組合の源流である。

 戦後、高度成長を経てこれらの協同活動も物質面で豊かになったためにやや足踏みした感があるが、今日では反動とも言える心の脆弱性があらわになり、本当に豊かになったがどうか疑問である。

 そのために二宮金次郎の「報徳」を学び、金次郎流の「芋こじ塾」”あらし山チロルの谷”に作ろうと思ったわけである。金次郎は理系であり、その考え方は科学的に説明できる。塾是に「天地の経文を読み解く」を掲げたのは、デジタルは道具でありリアル的思考の場が重要で、これから自らの体験を通して自得するという行為が意味を持ってくると思うからである。これは気象予報士としての私のライフワークでもある。そのためには自然の中で感性を磨くしかなく、”経験と観察と勘”農業の3Kであると、二宮金次郎がナスの味で冷夏を知った逸話が物語っている。

 次に「大學」の読み解きである。学校にある金次郎像が手に持っている本は「大學」であることを知っている人は多いが、そもそも「大學」という書物には何が書かれているか知っている人は意外に少ない。この「大學」には、福住正兄が書いた「二宮翁夜話」に出てくる所が多くある。我が報徳塾の「大學」指南役の辻先生によると、二宮金次郎は独学の人であり、「大學」に書いてある「明明徳」を天から学び体現した活学の人であるとのこと。この「大學」は報徳の源流であると思っている。

 続いて「文化力」の大切さである。先のミュージカル「KINJIRO」で感じたのは、意識付けに必要なものは感動であること。そのためには芸術的な要素が必要で、かつて農民を豊かにするために、宮澤賢治はレコードを聞かせチェロを奏でた。報徳を広く理解していただくために、唱歌に代わる新たな「報徳ソング」を作り歌いたい。私はフォークソング世代であり、ギターを弾き皆で歌い連帯を強めることを”シングアウト”という。あらし山チロルの谷では古くから組内ごとに念仏講があり、先祖に手を合わせ皆で念仏を唱えている。教会の讃美歌も同様ではないか。

 さらに各地に「報徳塾」なるものができればネットワークを作りたい。

 「報徳」の学びの連鎖で交流を広げられれば、「報徳」に新たな風が吹くと思う。そもそも協同組合はピラミッド型の組織(社)には適合せず、各々が小さいながら横に連携する蜘蛛の巣のような組織が向いている。これが形成できれば、なによりも変化に強い。「報徳」はこれからが本番である。

 

 愛媛報徳社あらし山「報徳塾」の塾是は「報徳学」(二宮金次郎)と「農民芸術概論綱要」(宮澤賢治)の融和をめざし、天地の経文を読み解き「誠の道」を探求する。教養を磨き文化力を高め、自らのアイデンティティーを確立するとともに、「報徳」の志を持ち「報徳ネットワーク」を形成することとした。

 

【あらしやま山荘に掲げた塾是】

天地の経文を読み解く

 

 学びの場というと大勢の人を一堂に集めた集合研修が主であるが、一方的な研修は身に付かないことが多い。報徳塾は金次郎流の「芋こじ塾」である。手の届く間合いで円卓を囲んで互いに学び議論をし、それぞれに自得する教えるほうも教えられるほうも学びあう。大坂の「適塾」や萩の「松下村塾」も、このようなスタイルであったと思っている。二宮金次郎の「報徳」は実践を尊ぶ。それは”自得する”ことから始まる。

 少数でも報徳塾の人たちがそれぞれに自得し、その周りで報徳の輪ができ連帯できたらいい。

 若いころに学んだ農業協同組合運動に習い、バンジョー片手に「報徳ソング」を歌いながら”オルグ”をすることが夢である。

 ”金次郎だけをみてると、金次郎がわからなくなるぞ”とは、年輪塾の若松進一塾長の名言である。

 このことを肝に銘じたい。

 さてさて、 

「報徳」とは”みんなちがって、みんないい”ことと見つけたり!

 

 塾訓は、以下のとおり。

 ・「大學」を読み解き、自ら至誠・勤労・分度・推譲を実践する。

 ・「農民芸術概論綱要」を自らの日常において実践する。

  ・「大學」の三綱領を実践し、自ら五事(貌・言・視・聴・思)を正す

 

【大日本報徳社 鷲山社長と共に】

愛媛報徳社設立総会

 

 鷲山社長ご夫妻のあらし山訪問は、実に7年ぶりである。

 鷲山社長が帰られる時に、”ここの風景はチロルの谷によく似ているね。もう一度行きたいと思ってるけど、ここで十分だね。”と言われた。それから、この生まれ育った風景を「あらし山チロルの谷」と称することとした。

 有難い!!

 

”道徳”と”報徳”は違う!

 今月3日付けの地元紙の1面を見て驚いた。

 それは、先日のこと急逝された榛村社長の後を受けて、大日本報徳社の社長になられた鷲山先生と話をしたばかりだったからである。それは小学校で行われようとしている道徳教育のことであった。

 その道徳教育の始点となるのは、いつの時期なのか?

 明治期から始まった組織的な道徳教育だとすれば、考え直さないといけない。

 その上に生徒個々を評価するとなれば、さらに問題であろう。

 かつて、県内の小学校の二宮金次郎像を精査したことがある。

 その原点となるのは明治天皇が「報徳記」を読まれていたく感動され、これこそ求めていたものであると教科書に載るようになったが、やがて国策に利用されていく。中江藤樹先生も大洲藩の頃に、幕府の文治政策に利用された林羅山の儒学を厳しく批判したことがある。国策に利用されるとロクなことがない。

 金次郎像が持っている本に書かれ、中江藤樹先生が本としたのも「大學」である。

 最近、大切なのは解釈であり、受け取り方であることを「大學」から学んだ。

 本題に戻ると、”道徳”と”報徳”は似て異なるものである。

 戦前の道徳教育の上にたって、二宮金次郎を理解してはいけない。

 二宮金次郎に学ぶべきものは、前半の人生ではなく後半にある。

 しかも、金次郎が言っているのは"勤労"であって”勤勉”ではない。

 ”報徳”は、すべてのものは同じ起源であるが能力や役割はそれぞれ違い、それを見出し役立てることである。

 金次郎像が持っている本には、"一家仁なれば一国仁に興り、一家譲なれば一国譲に興り”と書かれてあり、家庭教育の必要性が書いてある。まず親から子に、家族から地域にと”徳”を広げていくことが基本ではないか。

 知識はあっても学問を成さず、学びもせず、躾もできていない親こそ、問題ではないか。

 彼らを養育したのは我々であるが・・・・。

 

■5月3日の愛媛新聞1面掲載記事

愛媛新聞記事

再び掛川、大日本報徳社へ!

 年輪塾の仲間たちとともに報徳修学旅行を敢行、再び掛川の大日本報徳社を訪れた。

 この7月22日のことである。

 掛川の大日本報徳社を始めて訪れたのは、去年の7月3日、農業協同組合の源流を探るのが目的だった。

 そして、再び大日本報徳社の「経済と道徳の門」の前に立った。

 今回は年輪塾の修学旅行であり、榛村社長に講話をお願いすると快く受けていただいた。

 榛村社長は、国の重要文化財である大講堂での講話の最初に「倫理同体」について話され、”徳を一つ”にすることの重要性を説かれた。

 大日本報徳社にある経済の門は「道徳なき経済は悪である」、道徳の門は「経済なき道徳は寝言である」とある。

 アッ、そうか、このことかと思ったりした。

 この言葉は、金次郎さんが直接言われたものではないとも聞いていたので榛村社長にお聞きすると、金次郎さんの著作の中に、この内容が書かれているとのことだった。

 帰りがけに榛村社長がそっとメモを手渡された

 それには「道徳なき経済は、永遠の道おぼつかなし」「経済なき道徳は、労多くして効なし」と書かれていた。

 あ〜、これが金次郎さんが書かれていたものか、思い出していただいたんだ。

 それにしても榛村社長は凄い。

 まさしく、探していたものがここにある!

  

経済・道徳の門前にて

     【経済と道徳の門前での記念写真】

 

 全国に報徳運動は展開されているが、”相馬は精神性”を、”掛川は経済"を重視しているとのこと。

 だから、この掛川を中心に報徳思想に則った企業が多いんだ。

 榛村社長は講話の中で、「社」の必要性について話された。 

 以前、非営利組織であるNPO法人について、次のようなことを教えてもらったことがある。

 ・地域の課題を事業で改善し、収益をあげることは可能ながらも団体の構成員に分配をしない組織であること。

 ・組織体であるNPO法人は、ボランティアと似て異なること。

 ・単独活動では効果や成果に限りがあるので、多様な連携や協働が必要であること。

 ・第三者から成果が認められ、社会的な信用があること。

 そして今回、榛村社長に報徳流で言えば「生産性」「チームワーク」「リーダーシップと目標」が大切であること。

 「社」とはグループワークであり、小リーダーが多く育てばそれだけ成果がでるとも。

 「社」の存在なくして「報徳」の実行なし!

 ひとつ課題をいただいたような気がした。

 

 最後に、去年伺った折にお約束した年輪塾の”The Kinjirou Song”をシングアウトして終わった。

 これは「唱歌 二宮金次郎」のビートを変えたもので、これならロックでもジャズでもいける。

 年輪塾バンドのメンバーが、はるばる楽器を持参し、大日本報徳社の大講堂で演奏

 来年2月のミュージカルでは、年輪塾の仲間と聴衆が一体化した大合唱を予定している。

 ”古いものも新しい感覚でよみがえさせると時代に受け入れられる”のではないのかな。

 そして、これが”プリコラージュ感覚”だと思ったりする。

 めでたしめでたし!

 

KINJIROU Songのシングアウト 

 【大日本報徳社の大講堂でのシングアウト】

 

 

 

 

 

 

 

金次郎さんに学ぶ天候予測

 金次郎さんが生きた天保時代と今がよく似ているというのが私の持論である。

 事実、1700年代に噴火したのは富士山(1707)三原山(1775)櫻島(1779)浅間山(1783)で、噴火していないのは富士山だけである。

 さらに天明と天保の飢饉の気象状況は、暖冬で雪が少なく春と夏が低温多雨で、今でいう異常気象であった。

 この時、金次郎さんは昼食のおかずのナスが初夏だというのに秋ナスの味がしたことに気づき、イネや道端の草を調べると葉の先が衰えていることから、その年の天候は陰気なので作物は実らないと直感した。

 金次郎さんは、陰陽のめぐりあわせから気象を判断できたらしく、百姓たちを集めて、地下にできる芋、大根、カブなど飢饉に強い野菜の種や冷害に強いヒエを播き、そのヒエが実ったら必ず蓄えておくように指示をした。

 しかし、百姓たちは”どうして今年のコメの豊凶を初夏の頃から知ることができようか? そんなにヒエばかり作っても誰も食べたがらない”と囁きあったという。

 やがて金次郎さんが予想したとおり、盛夏になっても雨が降り続き、冷害によって凶作になったが、金次郎さんの指導のもとで一人の犠牲者も出さないで済んだ

 まさに、これこそが農業のインテリジェンス(智慧)で、「経験(K)+観察(K)+(K)洞察力」である。

 これを「農業の3K」といい、これを育むために愛媛県で産官共同で開発した「農業用気象クラウド」の実用化に取り組み、農家の農家による農家のための気象情報を配信すべく「NPO法人 坂の上のクラウド利用研究会」を設立した。

 金次郎さんの時代には無かったIT技術や便利な道具は揃っているが

 果たして、今の農家や農業技術者は、金次郎さんの「インテリジェンス農業」に敵うかどうか!

 This is Question !

 

金次郎さんの教え

 小田原の報徳二宮神社を後に、栢山にある小田原二宮尊徳記念館を訪れた。

 ここにある往年の金次郎さんの銅像の写真を撮るためである。

 金次郎さん七代目のご子孫である中桐万里子さんから、ここにある銅像が一番本人に似ているということをお聞きしていた。

 誰にも薪を背負って本を読んでいるという幼少期のイメージがあるが、身長は6尺(180儖幣紂、当時としては巨漢の部類だったらしい。頑固だったというが、風貌はどこか私の祖父を思い起こさせる

 記念館のボランティアガイドの方がいい人で、思いがけず、ツーショットの写真を撮っていただいた。

 私の身長は172僂世ら、やっぱり大きいや、ゴツッイなぁ!

 中桐さんは、”今でいうプロレスラーみたいで、怒られると怖かったでしょうね”と言っておられたが、よくわかるなぁ。

 この像は村を回っている時のいで立ちで、朝早くから夜遅くまで村を巡回しており、現場主義のリアリストだったことがわかる。

 金次郎さんの生家に入ると土間があり立派な家で、近所には預けられていた万兵衛さん宅があり、今もご子孫が住まわれている。

 この生家など金次郎さんに係るものが散逸していたのを買い取って集め保存したのは、真珠で有名な御木本幸吉さんであると記念館の方に教えていただいた。金次郎さんは、経済界の方に大きな影響を与えていたことは、このことでも理解できる。

 今回の報徳の旅で得たものは大きい。

 私にとっての「金次郎さんの教え」は、

 至誠・・・誠を尽し、やり遂げる

 勤労・・・弛まず学び、そして働く

 分度・・・自分の身の丈にあった分限を守る

 推譲・・・分度を超えたものを蓄積し、自分以外のことに役立てる

 

 あらし山に、この至誠」「勤労」「分度」「推譲」を額に掲げ、自分の仕事の目標にしよう!

 

金次郎さんと記念撮影

回村の像(往年の金次郎さん)

 

金次郎さんの生家

金次郎さんの生家

金次郎像の由来

 7月5日、鷲山先生の紹介で小田原城内にある報徳二宮神社に、草山理事長さんを訪ねた。

 金次郎像の由来を聞くためである。

 金次郎像が最初に作られたのは明治43年で、彫金家「岡崎雪聲」(おかざきせっせい)が銅像を作り東京彫工会に出品した。この像を明治天皇が見られて気に入り買い上げられたという。

 そして、この銅像が学校に設置された金次郎像の基本的なデザインと言われており、現在は明治神宮宝物殿にあるらしい。

 金次郎さん七代目のご子孫である中桐万里子さんから、戦時中に金次郎さんの銅像は金属拠出令により出征したが、報徳二宮神社にある金次郎像はご神体であるため、唯一、拠出を免れて残っているとお聞きした。

 なるほど、台座にはしめ縄が張られ他の像とは存在価値が違う。

 (確か、わが年輪塾が実施した学校の金次郎像の調査では、堀江小学校の金次郎像は出征したが戦後の闇市で地元の人が見つけ、持って帰って台座に置くとピッタリだったという話があったなぁ。)

 この金次郎像に会うために、遠路、小田原城内にある報徳二宮神社にやってきた。

 さらに道を隔てたところにある報徳博物館で、金次郎さんの直筆を見た。

 学芸員さんによると、あまり字は上手ではなかったらしい。

 あぁ〜、ホッとしたぁ!

 

報徳二宮神社の金次郎像

報徳二宮神社の金次郎像(ご神体であるために残った唯一の戦前の銅像)

 

金次郎さんの直筆

金次郎さんの直筆(報徳博物館の許可を得て撮影)

大日本報徳社と掛川の報徳運動

 私が講話をさせていただいた7月3日の大日本報徳社7月常会は、なんと第1689回目であった。

 どんな時にも、欠かさず月の常会が行われたといいうから、140年の間たゆまず続いていたことになる。

 これは凄い!

 報徳運動は、江戸時代の終わり頃から、二宮金次郎の唱えた「報徳」を普及し、道徳と経済の調和を説き、困窮する農民の救済をはかる実学的な方法として全国に広まった。特に静岡県では明治時代には420社の「報徳社」が結成され、やがて掛川は全国の報徳運動の中心地となる。

 人間の欲を認めながらも周りとたくみに調和させ、心もお金も同時に豊かに育もうという金次郎さんの考えは、農村救済の枠を超えて幅広く浸透し、渋沢栄一安田善次郎豊田佐吉松下幸之助、土光俊夫をはじめ、多くの経済界の人たちにも多大な影響を与えたといわれている。

 そして、二宮金次郎さんから直接教えを受けた岡田佐平治・良一郎により遠江国報徳社が創設され、岡田良一郎は明治7年(1874年)に資産金貸付所を創設し、それが掛川信用組合を経て日本で最も古い掛川信用金庫となった。 

 さらに、産業に関する協同組合的な考え方は、やがて産業組合となり農業協同組合の原点となっている!

 大日本報徳社の事業は、戦後の混乱期で挫折しかかったが、GHQの好評価などでよみがえり日本の復興を担った。

 現在の榛村社長は第八代目で、元掛川市長で、生涯学習運動とまちづくりを推進されたことでも知られる。

 榛村社長は、大講堂など六つの近代和風木造建築群の保存修復を行われ、大日本報徳社は平成24年から公益社団法人に移行した。

 

 大日本報徳社の常会は「報徳訓」の唱和で始まる。

 この報徳訓は、金次郎さんの教えを108字にまとめたものである。

---「報徳訓」----

 「父母の根元は天地の令命に在り、 身体の根元は父母の生育に在り、子孫の相続は夫婦の丹精に在り」

  「父母の富貴は祖先の勤功に在り、わが身の富貴は父母の積善に在り、子孫の富貴は自己の勤労に在り」

  「身命の長養は衣食住の三つに在り、衣食住の三つは田畑山林に在り、田畑山林は人民の勤耕に在り」

  「今年の衣食は昨年の産業に在り、来年の衣食は今年の艱難に在り、年々歳々報徳を忘るべからず」

 

 続いて、榛村社長の講話があり、不肖私の講話と続いた。

 当日、二宮金次郎さん七代目のご子孫である中桐万里子さんが飛び入りで参加され、閉会後、榛村社長と鷲山先生ご夫妻とともに昼食を兼ねての懇談会と相成った次第である。

 これは、豪華メンバーですぞ〜。

 続いて、夜は夜で鷲山先生のご自宅で、地域の報徳メンバーとの交流会。

 鷲山先生のお父さんは生粋の報徳運動者で、ご自宅は豪農を思わせる歴史ある建物(築後120年ほど)で、これは補修管理が大変だ。

 集まった方々から、それぞれの報徳のお話を聞き、美味しいお酒とともに参った、マイッタ。

 というわけで、掛川の夜は更けていく。

 さすが、掛川はレベルが違う!

 

榛村社長の講和

■講話をされる榛村社長(掲げてあるのが報徳訓)

 

大日本報徳社での懇談

■向かって左から、金次郎さん七代目の中桐さん、鷲山先生ご夫妻、榛村社長

 

鷲山邸での交流会

■鷲山邸での交流会(向かって右に立っておられるのが、当邸の主人である鷲山先生)

 

経済と道徳の門

 7月3日に掛川の大日本報徳社を訪れた。

 TPPと農協法改正で揺れる農業協同組合の源流を探るのが目的だった。

 年輪塾の尊徳学で、お世話になった二宮金次郎さんの七代目のご子孫である中桐万里子さんに”報徳社の活動を勉強したいんですが、どこがよろしいですか?”と尋ねると、”掛川の大日本報徳社がいいと思います”と教えていただいた。

”どなたか、ご紹介いただけませんか?”と尋ねると、”なにを言ってるんですか、鷲山先生がいらっしゃるじゃないですか”と言われ、あ〜そうだったと納得した。

 鷲山先生は、東京学芸大学の元学長さんで、年輪塾で「尊徳公開セミナー」を開催した折にパネラーとしてお世話なり、それから昵懇にさせていただいている。早速、鷲山先生に”大日本報徳社の活動を勉強したいんですが?”と申し上げると、”お前が来るのなら月例会で話をしろ”との指示をあり、なんと120年ほど欠かさず実施されている伝統ある毎月の学習会に講和をするということになった。(若松塾長からは”それは、まさしくメクラ蛇におじずだなぁ”と言われたが・・・)

 浜松経由で、掛川駅に立つと駅前で金次郎像が出迎えてくれ、高知城とうり二つの掛川城の下を歩いて、大日本報徳社に到着。

 すると、目の前に「経済と道徳の門」が現れた。

 聞いてはいたが、目の前にあると感無量で、とうとう来たかと思いが募る。

 向かって、左は経済で「道徳なき経済は悪である

 向かって、右は道徳で「経済なき道徳は寝言である

 金次郎さんが直接、言った言葉ではないが、まさしく名言である。

 掛川は、報徳運動の盛んな土地であり、

 ふと「運動なき協同組合はカスである」と思った次第である。

 下の建物は公会堂で国の重要文化財であり、文部科学省の指定書には「旧遠江国報徳社公会堂」とある。

 「至誠」「勤労」「分度」「推譲」だぁ!

 まさしく、農業協同組合の源流がここにある

 

大日本報徳社01

 

大日本報徳社02

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