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2016.12.21 Wednesday

学びてときに之を習う〜年輪塾「処志」〜

 年輪塾は開塾して10年が経過した。

 10年ひと昔と言われるが、ひとつの区切りであることに違いはない。

 この10年は塾訓にあるように、一期を2年として先人(宮澤賢治、宮本常一、二宮尊徳、ジョン万次郎、中江藤樹)に学んだきた。これらの先人に学びために、それぞれに伝道者を自ら選び出し、従来の内容にこだわらず、自分たちが嚙み砕くように学び、一期毎の終わりには公開セミナーを開くなど記録としても残してきた。

 多くの学びを得たと思ってはいるが、学びの真価はこれからである。

 

【大學】には、次のように書かれている。

 「その心を正しうせんと欲する者は、まずその意(こころばせ)を誠にす。

  その意(こころばせ)を誠にせんと欲する者は、まずその知を致す。

  知を致すは、物を格(ただ)すにあり。

 〜ここにある”意(ここばせ)”というのは、心の在り方である。

  「知を致す」ということは、知識を得て知恵に至るということである。

  「物を格す」とは「自分自身を正す」ことである。

  (自分も物の一つであり、突き詰めていえば自分を正すことになる)〜

 

『二宮翁夜話』には【大學】のこの一節について、下記のように記されている。

  ”まず智をみがき、礼を行い、義を踏み、仁に進むがよい。

   それゆえ大學では知をいたすを初歩としている。

   瓦というものは、みがいても玉にはならぬ。

   けれども幾分、光を生じて滑らかになる。

   これが「学びの徳」なのだ。”

 

『知行合一(ちこうごういつ)』

   【大學】には、

  ”知るというは行いの始めであり、行いは知るということが成ったものであって、実はこれは一つである。

  だから、行わなければ本当に知ったとは言えない”とある。

  これを「知行合一」といい、「知る」ことは「行う」ことと一つである。

 「二宮金次郎」は、この「知行合一」(知識と行動の一致)を自ら実践し、道徳に基づいた社会づくりを行い、豊かな実りと心の

  芳醇をもたらした人である。

 「道徳なき経済は悪であり、経済なき道徳は寝言である」という言葉は、掛川の大日本報徳社の経済と道徳の門となっている。

 

 もとより『知行合一』を実践するのが、年輪塾の「処志」である。

 もともとは「中江藤樹学」の中で、童門冬二さんが書かれた「小説 中江藤樹」にある「処士」を年輪塾流にしたものである。童門さんは、”君子=処士”と描かれているが、これを「知識」と「志」の検定をもって認定制度化した。

 年輪塾流の『知行合一』を実践するためには、「処(所)」いわゆる活動拠点を持ち、成し遂げる「志」が必要であるとの意味で「処志」が誕生した。

 今年の6月に「処士検定」(このときは処士だった)を実施し、第一号として眞鍋塾生が合格し「処士認定」を受け、処士の看板が若松塾長より授与されたことは記憶に新しい。

 さらに12月17日には、若松塾長が年輪塾の「処志」総括として人間牧場に看板を掲げ、辻先生と私が「処志」師範の認命を受け、この10年の学びを礎として新たな展開を行うこととなった。

 これから「処志」による年輪塾の私塾ネットワークが始まる!

 

■年輪塾「処志」総括看板を人間牧場に掲げる!

161217年輪塾「処志」総括看板

■年輪塾「処志」についての想いを語る若松塾長

161217年末塾にて

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