風の便り from あらし山

雲の変化を愛でて、自然の移ろいを語り、人生の機微を楽しむ。ある時はミカン山から、ある時は雑踏の中から、雲の変化の如く・・・。
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忘れていた「報徳」の功労者 ”安居院庄七”(前)

 最近、一冊の本の存在を思い出した。

 愛媛県農協中央会で仕事をしていた折に、”二宮金次郎は好きでしょう。良ければ、この本を差し上げます”といただいたものである。その時は、ちょっと”ケッタイナおっさん”やなぁと思って仕舞いこんでいた。

 それが、このところ急に思い出して、”アレ、どこに仕舞ってたんやろ”、”どこかにある筈なんやけど〜”、と急に探し始めたが見当たらない。冷や汗をかいたが、やっと本棚の思いがけない所から見つけ出した。

 どうも金次郎さんの「報徳」には、三つの系譜があるらしい。

 一つは金次郎さんの生地の小田原(箱根には福住正兄)、次に一番弟子の富田高慶の相馬で、続いて金次郎さんの晩年の頃に報徳が盛んにおこなわれるようになった遠州(現在の静岡県西部)である。ところが、これは「報徳」の元祖である金次郎さん達がまったく知らぬことだったらしい。

 この遠州の地に「報徳」を伝えたのが、”安居院庄七(あぐいしょうしち)”であった。

 このちょっと”ケッタイナおっさん”がいなかったら、金次郎さんが亡くなった後の「報徳」の広がりが説明できず、金次郎さんの「報徳」が農業協同組合の源流であることもなかった。しかも面白いのは、この安居院庄七のことを、金次郎さんはあまり知らなかったことである。なにしろ”安居院庄七”が、金次郎さんの所にいたのは僅か25日ほどで、教えを受けるどころか、言葉を交わすこともなかったという。実は、庄七がここに来たのは自分の家の商売に失敗し金に困り、金次郎さんの話を聞きつけ、金を貸してもらおうとやってきたのである。いざ来てみると、どうも自分が考えていたのとは随分と違った人らしいと気が付き、この間、下働きをしながら門弟たちから金次郎さんの教えをむさぼるように聞き、それを記録し書物を書き写し、猛勉強をした。滞在中、金次郎さんから教えを直接受けなかったことは、これから後の庄七の業績を考えると実に注目すべき事柄である。

 金次郎さんのもとから帰った庄七は、これまでの自分を反省し商売に励み成功する。

 その商いとは金次郎さんから学んだ「報徳商い」で、「売って喜び、買って喜ぶ。双方共々喜ぶ」「お客の立場でお客が求める商品の取り次ぎ役となる。自分中心の儲け主義は捨てる」というものだった。この時期に庄七は、「世の中は、合うようにして合わぬ。合わぬようで合うもの」という言葉を残している。 

 庄七の商売は繁盛し、商売のコツを聞きに来る人も現れるようになった。

 やがて、庄七は乞われて周辺の村にも金次郎さんの教え「報徳」を広め始め、これを全国に広める志を立て、金次郎さんの「一家を廃して万家を興さん」に倣い、弟と郷里・秦野をあとにする。

 行った先は、秦野から西に向かい河内国(大阪府南西部)で、ここで”万人講”を継承する。

 ”万人講”は、伊勢神宮、春日大社、石清水八幡宮を信仰する講で、講仲間を募り金を積み立て、これら三社に代参を派遣し灯篭を寄進したり、神楽を奉納したりする。旅行が珍しく、難しかった時代であり、代参の順番に当たった者は物見遊山を兼ねて旅ができた。やがて、浜松で「報徳社」を作ってからは「報徳」が主になり、その中に”万人講"の要素も入れていくようになる。

 このことが、後の報徳運動に影響を与えたと思っている。

 

【協同組合の原点「報徳」を広めた”安居院庄七”】

安居院庄七

(制作:JAはだの 秦野市農業協同組合)

 

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