風の便り from あらし山

雲の変化を愛でて、自然の移ろいを語り、人生の機微を楽しむ。ある時はミカン山から、ある時は雑踏の中から、雲の変化の如く・・・。
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「楽農ゼミナール」2018 〜鎌倉研の歌と語り◆

 次の曲は、仙台の空襲を取り上げたものである。

 あらしやま山荘の仏間にある戦死した叔父の写真を見て、歌おうと思ったと話している。

【ブラザー軒】

 

”鎌倉さん、今日のメンバーは「ぼやきフォーク」が通じるよ”と耳打ちしたら、この曲となった。

思った以上に反響があり、同世代の共感を誘ったかもしれない。

【チューリップのアップリケ】

 

続いて”ブルーズ”である。

鎌倉さんの歌を聴いていると、上田正樹を彷彿とさせる。

ぜひ歌って欲しかった曲である。

【Bluesやって】

 

 

 

 

 

 

「楽農ゼミナール」2018 〜鎌倉 研さんとの出会い〜

 ”鎌倉 研”さんと初めて出会ったのは、平成28年10月28日のことである。

 松山市内のライブハウスで、楽農ゼミナールで友情出演をしていただいた中村さんが野村町でコンサートを企画された折に、フォークシンガー”鎌倉 研”という名前に出会った。誰だろうと調べると、北野たけしの「北野フォーク人生王」という番組で「彼はドアマン」を歌っていた映像を見た。この時のギター伴奏が、なんと中川イサトさんである。うまいなぁ!

 ライブハウスでの鎌倉さんの語りと歌に、すっかり惚れ込んでしまった。

 今回、ゼミナールと称したのは鎌倉さんの軽妙な語りの中に人生を感じたからで、彼のライブは講演そのものであり、歌とあわせた”講演ライブ”となった次第。

 この日の最初の曲は、その「彼はドアマン」である。

【彼はドアマン】

 

 二曲目は私に捧げてくれたらしいが、もっていき方が憎いね!

【男同士の話をしよう】

 

三曲目は”濡れ色の想い出”というCDの最初に入っている曲です。

【夕暮れ】

「楽農ゼミナール」2018 〜宮澤賢治との出会い〜

 宮澤賢治の「農民芸術概論綱要には、こう書かれている。

〜 おれたちはみな農民である。

    すいぶん忙しく仕事もつらい。

  もっと明るく生き生きと生活をする道を見つけたい。

  いまやわれらは新たに正しき道を行き、われらの美をば創らねばならぬ。

  芸術をもてあの灰色の労働を燃やせ。

  なべての悩みをたきぎと燃やし、なべての心を心とせよ。

  風とゆききし、雲からエネルギーをとれ。

  ここにはこれら不断の潔く楽しい創造がある。

  都人よ、来ってわれらに交われ、世界よ、他意なきわれらを容れよ。〜

 ・・・と。

 この「農民芸術概論綱要」を知ったのは、今から10年前のこと。

 年輪塾の第一回目の公開セミナーに山形から農民詩人でもある"星 寛治"さんをお招きして「宮沢賢治と私」と題して講話をしていただいた時である。上記の文章はかなりの要約であるが、この中に宮澤賢治の志が凝縮されていると思っている。

 小さい時から来る日も来る日も、ミカン山で農作業をしている両親の後ろ姿を見て育った。家業を継ぐ身であるにもかかわらず、その期待に応えられなかったが生まれ育った在所やミカンづくりが嫌いなわけではない。ただ成り行きに任せたわけではないが、振り返ると宮澤賢治を追いかけてきたたような気がする。

 学校では農芸化学を学び、仕事は土壌肥料の技術者だった。ミカン農家の出であるにも関わらず米麦の栽培指導もし、”あきたこまち”の導入や愛媛初のブランド米”こいごころ”を手掛けた。おまけに気象予報士となり”農家の農家による農家のための気象配信事業”の創業にも携わった。

 ちなみに、一番好きな宮澤賢治の作品は「グスコーブドリの伝記」である。

 羅須地人協会(らすちじんきょうかい)は、宮澤賢治が大正15年に花巻市に設立した私塾で、農学校を退職した後、ここに拠って自身も農業をしながら生活し、チェロを演奏しレコードを聴かせたりした。現在は花巻農業高校の敷地内に移築復元され、二度ほど訪れたことがある。

 定年を迎え両親がこの世にいなくなるなど想像もできず、生まれ育った我が家が負債として重くのしかかった。県の公益財団法人”えひめ地域政策研究センター”で地域づくりの仕事をし、若松進一さん達との出会いがなければ、この日は来なかったと思う。

 この10月8日は、生まれ育った在所を「あらし山」と号し生家を「あらしやま山荘」としてリニューアル現代の羅須地人協会として再生した日となった。これに先立ち、先月15日は掛川から大日本報徳社の鷲山社長が来られ、”ここは以前訪れたチロルの谷によく似てるよ”と言われた。それから、この在所を「あらし山チロルの谷」と称することにした。

 この日は地元八幡浜市日土町の皆さんなど49名の方が”あらしやま山荘”に寄り、鎌倉 研さんの歌と語りを堪能した。地元紙の愛媛新聞にも紹介され、ようやく”大願成就”である。

 生まれ育った在所と生家が”宝物”に変わった。

 有難い!

 

【10月15日付け愛媛新聞】

181015愛媛新聞「楽農ゼミナール」

【あらしやま山荘での「楽農ゼミナール」平成30年10月8日】

楽農ゼミナール2018

 

 

 

 

 

 

”Minato-machi Blues” in 八幡浜

  〜 背のびして見る 海峡を 〜

 ・・で始まるこの歌は、ご存じ森進一が歌った「港町ブルース」である。

 初めて聞いたのは中学生の頃だったと思う。

 北海道の函館を皮切りに、鹿児島県の枕崎まで日本列島を南下するように多くの港町が歌われている。

 4番目の歌詞の最後に”八幡浜〜”と出てきた時は嬉しかった。

 山間とはいえ、生まれ育ったのは「魚とミカンの町 八幡浜」である。

 ご当地地ソングと言えば、これしかない!

 ただ歌詞をよく見ると、港町とはいうもののほとんどが漁港である。

 しかも、いずれも太平洋側で日本海側の港町は入っていない。

 なんでだろう〜?

 この10月8日の「楽農ゼミナール」に、フォークシンガーの"鎌倉 研"さんに無理やりお願いして、ご当地ソングということで歌っていただいた。その折に、友人から”誰が詩を書いたんだろうね?”と尋ねられたが、作曲したのは猪俣公章さんだけど、アレっ誰だったけ?

 調べてみると、この曲は雑誌『平凡』が公募して、なかにし礼さんが補作したものらしい。

 皆さん、森進一は八幡浜を「やはたはま」と歌っていることを知ってましたぁ〜!

 

 それでは、"鎌倉 研”さんの「Minato-machi Blues」をお聴きください。

 松山には湊町もありますけど。

♪ 別れりゃ三月 待ちわびる

  女心の やるせなさ

  明日はいらない 今夜が欲しい

  港、高知 高松 八幡浜〜

 

忘れていた「報徳」の功労者 ”安居院庄七”(後)

 愛媛県農協中央会でいただいた本の参考文献の筆頭に「報徳開拓者 安居院義道」鷲山恭平:著とある。なにか聞き覚えがあるような気がするけど誰だろう・・・と調べると、大日本報徳社の鷲山社長のお祖父さんだった。ちなみに鷲山社長のお父さんも農業改良普及員をされ、農業技術の普及改良に尽力されたと聞き及んでいる。

 これも何かのご縁だなぁ!
 さて「報徳」を全国に広める志を立て郷里を後にした庄七は、旅先で村々の困窮と復興の様子や農業の実態を見て回った。金次郎さんの「新田開発は心田開発」の教えにも忠実で、人の心と同時に農業を大切にしていた。農業は素人だったが秦野の村の立て直しにに成功したこともあり、やがて最新の優れた農業技術・経営の指導者となる。それが「報徳」の普及に大いに役に立ち、お茶、養蚕、野菜。タバコなどの換金作物の導入や合理的で新しい栽培技術も指導したらしい。

 1847年春、弟とともに遠州浜松宿に近い下石田村(現在の浜松市東区下石田町)の庄屋・神谷与平治を訪れ、庄七なりに学び実践してきた報徳仕法を伝えると下石田報徳社を設立する運びとなった。「報徳社」とは報徳仕法を実践する地域の組織で、設立は3番目だが「報徳社」と初めて名乗った

 ここで特筆すべき点は、庄七が主導した遠州での「報徳」が農業技術の改良と結びついていたことである。最新の農業技術が「報徳」と一体となって広まっていき、「報徳」は当時の農民にとって先進的かつ実用的な教えだった。後になって大日本報徳社が農業技術の普及改良に力を入れ、それが農業協同組合に引き継がれたことも無関係ではない。

 安居院庄七は商人である。しかも金次郎さんに直接教えを受けたわけでもなく、金次郎さんの所にいたのは1ヶ月に満たず、金次郎さんが実践してきた仕法や考えを全て学び理解できる筈もない。遠州に伝わったのは庄七流の「報徳」で、金次郎さんが指導した「報徳」のやり方とは系統が違うかもしれないが、新しい意味での”「報徳」運動”だったのではないか。金次郎さんが手がけてきた報徳仕法は幕府や藩などによる上からのやり方(仕法)で、今でいう”行政プロジェクト”である。一方、庄七たちは庄屋が中心だったとは言え、あくまでも農民側の自発的な「運動」であった。

 そして1853年9月、ついに庄七たちは金次郎さんと面会を果たす。ただ「報徳社」を名乗っているものの「報徳」の創始者である金次郎さんから認知されていた組織ではなく教えを受けたわけでもなかったが、金次郎さんはこれら遠州報徳社を高く評価し、全て直系の報徳仕法組織として認知した。さらに岡田左平治の息子の良一郎の入門を認め直弟子とした。この良一郎の子供が、岡田良平、一木喜徳郎で、遠江国報徳社から大日本報徳社へと明治以降の「報徳」運動を牽引していくことになる。

 安居院庄七は、各地を回る時には農繁期には商業地域に、農閑期には農村に行っていたという。農業ばかりではなく商売の指導も行い、「報徳店」とか「元値商い」で、「現金掛け値なし」で繁盛させたという。教えを受けた商人たちは「売り先、買い先は父母の如く心得るべし」「苦労なければ利益なし」「信用はその身その家の資本なり」などを商家の心得とした。このことは「報徳」が企業活動に取り入れられ、多くの財界人が「報徳」思想を信奉していることと無関係ではない。庄七は、酒はほとんど飲まず、食べ物は質素で、服装は無頓着だったようだが、大日本報徳社の鷲山社長によると”庄七は苦労人で、人情の機微をよく心得ており、何か愛嬌があり憎めない人だったんだろうね”と言われていたのが記憶に新しい。

 庄七は歌が上手で、道歌が残っている。

 「乱杭(らんぐい)の長し短し人こころ 七に三たし五に五たすの十

 (乱杭は川辺に立てた杭のこと。長いものや短いものと色々あって、川の水の流れや水の量をうまく調節し、勢いをやわらげることで、長短の杭全体が護岸や堤防を守る働きをしている。人間は十の心が全般にわたって一番良いが、そんな人間はいない。人の心は七つの心、五つの心の、三の心もいる。それぞれの思い、考え方、知識は違うが、互いが理解し合い、助け合い、補い合うことで、十の優れたものになっていく。)

 1847年、安居院庄七は静岡県浜松市下石田に「報徳社」を設立した。同じころヨーロッパでは、1844年にイギリスで「ロッチデール校正先駆者組合」ができ、協同組合が誕生した。戦後、高度経済成長を経て豊かで便利になったが、一方で社会不安はますます広がっている。本当に豊かになったんだろうか?

 安居院庄七は、身を以て「運動」の大切さを教えてくれている。

 さらに今流の協働ではなく、あくまでも「協同」であることも。

 

 ♫ どんなものにもよさがある、どんなひとにもよさがある

  よさがそれぞれみなちがう、よさがいっぱいかくれてる

 ♫ 一人の人間は、とても弱いけれど、

  それでも皆が皆が集まれば、強くなれる、強くなれる

 

【報徳を広めた功労者:安居院庄七】

安居院庄七

【安居院庄七揮毫屏風(大日本報徳社蔵)】

安居院庄七揮毫屏風

 それ天に逆らえばすなわち道なく、地に逆らえば徳なし。

 しかるに本居より外に走れば、すなわち根国に没落す。

 ゆえに情を天地に斉しく、想いを風雲に乗せる者は、道の本に従うを為し、神の要を守るを為す。

 まさに万語の雑説を除き、一心を挙げて定準を知らんとす。

 すなわち天命配して、神気を嘗めん。

  (大日本報徳社「報徳誌」10月号より)

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